室伏鴻 ── 外・恩寵・ふるさと──芥 正彦

室伏鴻 ── 外・恩寵・ふるさと ── 芥正彦

ふつうダンサーはいつも不完全な監禁状態にある。アルトーもそうだった。

身体は糞や精液や又、感情や官能の器官であると同時に社会コード化、もしくは商品化された概念機関でしかなく、生は切り刻まれ、記号化され、ヒダの感触としてしか固有性をもちえず、身体内部に生まれてくる、曖昧な自己が自己を見失うファシズムのベールがあり、これを無化したり突き破る狂気は、既に隣人の手垢や監視の中にあって、さらにファシズム化されていく。

それゆえ、身体はいつも他者であろうとする。決して私であろうとしない。

そのことは、商品の、そのファシズム性として、決して自らというものはなく、たえず他者の欲望する何かであろうとして存在しているという、呪物性と似ている。

だから、もし彼が自らの手で、裸の命や存在そのものに直接触れようとするなら、極度に秘密の夜に、極度の秘密の場所で、極度の秘密の自己犠牲を、少しも発狂せずに行う必要がある。それは、まったき他者と面会し、当然命尽きるまで議論し続ける羽目になるからだ。例えばそれは、アルトーの“残酷”の聞くことの不可能な悲鳴であり、土方巽の暗黒の鎌鼬の絶対的な真空でもあった。

ここには、存在に介入された身体のみがもつ、爆発と覚醒があり、力と空虚さえもある。さらに、祈りに充満した極度の圧力がある。──すべての迷子になった、社会コード化された身体や、商品化された身振りのファシズムを、一瞬に破り、廃棄する力がここにはある。エロスに代わるエロスが、エロスを屠殺するエロスが、誕生しているのである。そしてそれは善的な無、すべての矛盾が消尽し尽くす善的な外が、開かれたのだ。室伏鴻の身体が、それだ。

そう希求し続けた末にやってくる身体が、彼だ。

実に40年間の彼の彷徨がある。サミュエル=ベケットからドゥルーズへ、アルトーからデリダへ、器官無き身体から即身成仏のミイラへと、彼の無の爆発が連続する恩寵、それが彼の“ステージ=身体”となる、恩寵だ。だから私たちは、彼の外にあって、私たちの故郷を彼の身体に感じるのだ。

芥 正彦


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