作品

アポカリプスの喇叭

───それは「劇団駒場('67 〜 '76)」から「ホモ=フィクタス('77 〜)」へ無呼吸のまま鳴り響いている。
芥正彦
(『演出家の仕事』2006年2月15日)


空間が根源的で過剰に反権力だったあの豊穣な六〇年代───。それにしても演出家とは一体、何(傍点:何)なのか、誰(傍点:誰)なのか、何故必要なのか? 何一つはっきりしていないのに当然なものとして存在している、この「演出家」というものにはなぜいつも、猥褻なものが付きまとっているのか?

世界の劇場化及び作品化に不可欠な他者ということなら、この他者はいつでもどこでも、自分が自分自身である以上、その自分自身のいたるところに現前しているのだから、彼等の無数の呟きを聞き、イデーを見届ける鏡として透徹した「神経の秤」を持つことで足る。だから芸術的には、「演出家」とは一つの余計な悪意、卑猥な邪魔者、社会的には権力と大衆を代弁する二重スパイ、芸術の秘密への嫉妬深いストーカーであり、病的な覗き魔である。

演劇における耳とは、あるいは眼、そして皮膚とは、世界の声、光と響き、陰影を聴こうとする何よりも繊細な差異に敏感な神経が外/内に通じて、自我と他我を交流させるエクスタシー空間の言わば「陰部」となり、生殖の豊穣さが言語における意味発生のそれとなる「秘密の供義」の「場所」でなければならぬ。そしてこの意味発生「場所」とその力こそ「劇場=真空」という「器官無き身体」の基底材となり、すべての器官(観客)を引き受け、誰のものでもなく、何のものでもなく、器官すらなく、はじめて演劇は自らの言語装置を起動させ世界そのものとなる。そして本質的に人間の身体は宇宙の生殖器であるように、空間における俳優体(スタッフも含む)は言語世界のそれたり得る。ここに真の演劇の秘密の演出の一端はある。

だから演出「家」という職業を社会に一人歩きさせるのは羊飼い文化の父権性のように、教会の司祭権力のように、国家の官僚権力のように、あるいは超自我を制度化するような単に遠近法的な無根拠な権力悪に過ぎない。「死の複製」を分業化し、演劇を産業化する制度としてのナチズム的な悪だ。そういった意味でわたしは近代の分業制度の「悪」としての出発などしていない。何よりも本来、演「劇」は生が存在する根底にある二重性そのものに関わる毒とその無化なのであって産業のロジックや宗教の超我性による社会的複製は不可能なのだ。

演「劇」が現前し「場所」が起り、エクスタシー(脱我)の裡に満ちた「毒」が覚醒し、意味となって存在が立ち上り美(真空)が渦巻く空間が普遍性を帯びて後、イデーが新しい「無」とともに現前化し、世界が存在を通底する残酷なエクスタシーとなって知覚されたものになり、その支持体としての精神(火)・言葉(灰)・亡霊(声)、それらに責任を取る「場」として、わたしは自らの「身体」を考える。したがってこの「演出家協会」などという胡散臭い組織も早く消え去ることが望ましいと思っている。管理したがり屋の文化庁が、演出家の出自や思想調査をする手先などやってはいけない。ともかく演出家を必要としない演劇空間を新たな世界の生の文化として創造できない限り、演劇に新しい未来はない。若者よ、もう一息だ! 俺達を「新しい劇場」で皆殺しにしなくちゃいけない───。以上、昔を思い出すとつい過激になってしまう。

それはいつからだったか?───「演劇的無神論」がわたしの身体を引っ掴んで揺すったのは、原爆の焼土に生まれ、十代(それは浅沼暗殺事件からケネディ暗殺まで)に経験した四人のアーティストと、二人のエクリチュールに触れたせいだ。J・ポロック(絵画)、ドストエフスキー(文学)、アルトー(演劇)、コルトレーン(音楽)及び、ニーチェとフロイト。彼等は私を袋叩きし続けて来た。メンバーを時々替えながら(マルクス、ヘーゲル、ゴッホ、ロートレアモン、ローリングストーンズ、レヴィ=ストロースなど)今ではようやく静かになった。

社会的には六七年の処女作『太平洋戦争なんか知らないよ!』(「身体・空間・制度・劇」をテーマに、集団の運動を用いて中心をどこにも設定せず中心が移動する空間。劇と肉体を国語とその歴史から解放すること、次元の違う三つの劇を同時に上映するポリドラマ構造の空間劇)が「演劇」家のスタートと言える。あるいはその翌年、二つのロックミュージカル風な政治劇の後、二階建ての喫茶店を劇場として、女子高生がレイプされたりする政治風刺劇やウェイターやウェイトレスが生後二ヶ月の赤ちゃんを沐浴させながら始まる祝祭劇あたりで「演劇」家としてスタートに確信を持ったのかもしれない。これをきっかけに演劇理論誌『地下演劇』(寺山修司と)の創刊に参加することとなった。

当時、空間は殺され、文学(戯曲)に支配され、生の拡充に対して怠惰な演出家の責で、身体は言語の一義性から少しもはみ出ることのできない俳優たちの疎外と隷属は我慢できるものではなかった。それは私達の欲望する空間からほど遠く、生の存在のやり切れなさとは全く無縁なものだった。演劇世界もニュートン的(身体が消えても空間や時間は絶対的に存在し続ける)宇宙からアインシュタイン的(身体=物質が消えたら空間も時間も総体的に消滅する)宇宙へと変わらなければならないと強く思ったと同時に、全芸術(全生物、全事物、全亡霊、全記号、全現象)の「空間」参入と有機的な運動を唯一可能のものとしている「生の二重性の演劇」、二元論や弁証法を超えていく空間、その実現のためにも、「進歩的文化人達の左翼的組織論」から演劇の救出も急務だと思った。それは例えば先述したように、生殖行為の豊穣さを言語の豊穣さ、身振りの豊穣さ、声の豊穣さへと換えていくことで、一点眺望監視型イデオロギー支配からの脱出でもあった。そのためには自身の感性だけでなく、様々なものの同時変革を必要とした。シニフィアン(感覚的言語)とシニフィエ(叡智的言語)の相互侵犯/融合の新しい言語装置の開発など。

そして、六八年その様々なものの変革が実際に惑星規模で同時に発生した。世界の政治的二極構造を乗り越え、弁証法を乗り越えるべく、演劇をはじめ、様々な分野で前衛的精神が燃え上がった。思わぬスピードでアポカリプスがやって来たのだ。世界史全体が新たな光の溢れ出しに向かって脱構築されるべく、全人類参加型のポストストヒストリィ的スーパーフラット空間に私達人類は人類史上はじめて到達したのだ。もし第二次大戦というホロコーストに意義があったとしたら、この六八年の存在論的世界変革を私たちに贈与したということ以外にはないだろう。私達の生命と共に世界歴史そのものの一大脱構築が行われたのだ。もちろんこの脱構築は二一世紀も持続されねばならない。そして、私達の「新しい無の劇場」を、人工爆発が引き起こした大量生産、大量消費、大量虐殺の二〇世紀の悪魔的な構造から脱出させなければならないからだ。

一方で都市が持つ、都市固有の演劇を生み出さねばならないと思った。私の場合、それは首都Tokyo。したがって天皇制という民族固有の国家型劇場制度と対立し、脱構築し続けることになった。都市を通じてこの惑星全体をおおっている原爆の聖性を劇場性とした演劇を表現したかった。それゆえ、愛、芸術、生活、革命は同じものでなければならなかった。たとえば劇場における出産とか、こいつは全くもって難しかった───。

また、民族のアニア・アニムスである超越論的俳優としての天皇、及びそれを支えるヘーゲル的劇場としての天皇制も、演劇としての科学的、人道的検討がもっと成されねばならなかった。───人類にとっての「器官なき身体」としての劇場(たとえばS・ヴェイユなら「重力・真空・恩寵」、アルトーなら「残酷の演劇」となる)を私達が確立するまでもう一息だったのだが。それと、天皇の俳優性と俳優の超越的俳優性が一騎打ち(三島由紀夫のネガティブな実現は別として)することも。

すべてが肝要です。真理の通路であり、発生の現場となるべき演劇にとってそれぞれは単独に存在しているものではなく、ひとつものを違った言い方や現れ方をしているにすぎず、それぞれ同時に「演劇言語」に対し本質的同一性に向かって、違った次元に異なった諸事物を通じて、ここに一つの言語装置がそれぞれに発現されているにすぎないのです。

わたしのそろそろ四〇年になろうとする演劇の歴史での多少なりとも関わりのあった、ジャンルを超えてアングラ的な闇を抱えていた存在としての先人達───(米軍占領下で青春を過ごした)大島渚(映画)、土方巽(舞踏)、三島由紀夫・埴谷雄高(文学)、寺山修司(短歌・詩・劇作)等は共通して「絶対天皇制」の持つ日本的問題が精神の暗部となり、存在の影となっていたけれど、私達、いわばアングラ世代───阿部薫、近藤等則(音楽)、中上健次(文学・劇作)、村上龍(文学・映画)、ビートたけし、長谷川和彦(映画)、松田勇作(俳優)等はジャンルを超え原爆(暴力)と聖性を精神の出発点として共有している。そしてこれら二つの世代は歴史の死線(原爆と天皇の変身)を超えて共闘し、より大きな力となったのだ。

そして何よりもアングラ空間はジャンルを超えすべての時間や存在を呑み込み、未来へのエゴイズムも、あるいは死への物語をも支持し受容するものだった。それは今も、これからもそうあるべく、すべての演劇は“アングラ(理性の外部)”を内包していなければならないのです。

生の演劇を巡る「器官無き(傍点:器官無き)身体」の芸術的聖性にこだわること。それはいつも戦いとなる。この世の猥褻でなしくずし的な“身体(傍点:身体)無き器官”との不公平な戦いだ。この顔の無い母権性ファシズム、様々な宗教や暴力装置が寄生している“身体無き器官”いわば凶暴なファントマ、怠惰で狡猾な匿名集団(少々有能な演出家達がさかしらだった評論家や記者ともどもグルになってナワバリ意識を発揮して演劇的事実をネジ曲げたり捏造したり、政治「悪」を競い合っている)この、個としては顔も名も身体も持たない、平気でメディア操作をする、これらの非倫理な共存在嘘つきグループを時折火を掛けて灰にしたり、切断したりする「遊び」を「劇場化」し、決して彼等が手出しできぬ真空の、器官無き(ルビ:器官無き)身体としての「場所」を発生させることも演劇の永遠のテーマであり、使命である。新しい演劇とはいつも演劇悪との戦いのうちに生まれてくるものなのだ。

人間は自らの制度のうちに人間という「アングラ(理性の外部)」劇を内包しているように、すべての人類は人類にとって今なおアングラ(ブラックエナジー)存在であり、その共存性は宇宙の秘密を1も出ていない。いくらメディアやメディア機器が進歩しても、世界がスーパーフラット化しても、人類は各々一人々々が秘密の裡に全き他者なのであり、そして互いにその到来を待ち続けているのだ。情報のスピードが速まれば速まるほど人間の他者性は強まり、人類は心の奥底で待ち続け合っている。ここに人類発生以来ほとんど変わっていない存在の演劇がある。───以上「外部の悲鳴と内部のノイズ」に私は応答した。


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