作品

シンポジウム:演出と戦略

地下演劇 no.2、1970年2月1日
司会:斎藤偕子
参加者:高松次郎+菅孝行+芥正彦+和田勉+東由多加+最首悟


編集部 現在、芝居というのは舞台の上だけでは収容がつかなくなって、考えようによっては国会もつまらん芝居だし、大学の中にも芝居があるし(太字:編集部 現在、芝居というのは舞台の上だけでは収容がつかなくなって、考えようによっては国会もつまらん芝居だし、大学の中にも芝居があるし)いたるところに芝居があるということで、まず芝居というのは、はたして演出があるのがいいのか悪いのかみたいな話から……。
たとえば、演出はマキャベリズムなのか。そういうことをいろいろ放談ふうに話し合いをしたいわけです。東大全共闘の中で非常に積極的に政治のレベルで仕事をしている最首さん。高松さんは画廊の外へ石ころ(傍点:石ころ)を置いて、それを見るために街を歩かなきゃならないという形で画が街頭へ出ていく。和田さんなんていうのは、そういう意味でテレビの中にとじこもって、できあがってきた。東さんと芥さんは若手の、ぼくらが常に興味を持っている演出家なんです。
何となく和やかに最近の芝居の話をするという感じではなく、何か座談会そのものが芝居だと思うんです。積極的に、自己否定だけでなく、相手も否定するような形で話し合いをしてもらいたい、そういうことなんです。

斉藤 今、おっしゃるようにあらゆる意味で、芸術にしろ、あるいはいろんな社会改革にしろ、外へ出てきたと思うんです。現実との何か、とっかかりを失ってそれだけの世界にとじこもろうとしていた日本の前衛劇にしろ前衛芸術というものが、わりあい社会と離れていた。それがですねえ、そういうところへ出ていこうとする積極的な姿勢が出てきていると思います。もう一つは、今おっしゃったように演出ということですが、あらゆる行動とかそういうものの中に演出というものがあると思うんですが、それが結局本当に戦略にならなきゃならない、そう考えるんですが。その戦略っていうのがですねえ、非常にうまくいってないんじゃないかと批判があるんですが。

芥 どっから? どっから批判があるわけですか。

斉藤 どっからって、私がそういうふうに思うんです。

芥 あなたは戦略があまりうまくいっていないと思うってことですか。

斉藤 戦略っていうものの中に何か一つのジグザグがあったり、演出っていうものが戦略と重なってこなきゃあならない。

芥 何に対する戦略としてうまくいっていないとあなたは批判するわけですか。対象があるわけでしょ? 戦略といった以上。

斉藤 それはですねえ、いわゆる、その……。

東 戦略っていうふうにいわない方がいいんじゃない? 

斉藤 それは最後に結論として出てくるわけですが。そういうことを含んでいただいて、何か演出っていうものと戦略っていうものを、芸術の世界にしろ、もちろん学生運動にしろ。

芥 まあ、当然戦略の相手が何か、誰かみたいな、あるいは何者かということを探ろうとする戦略っていうことになっちまいまさあね。

東 いろんなのをテレビで見たり、芝居で見たりすると、非常に作品になってるわけですね。作品であるからには俳優がいるか、作家がいるか、あるいは何か別のものがあるかっていう気がするわけですよ。そうするとウーン(傍点:ウーン)と考えるわけですよ。だから作品であるのかないのかということを考えた方がいいんじゃないですか、もっとなぜ作品になっちゃうのかっていうことを、むしろ。

斉藤 しかし、それはそこに演出っていうものがですねえ、どういうふうに働くか。

東 作品として、もしあるならばね、演出家はその作品を成り立たせるに何をになっているのかっていうのをね、はっきりしさせた方がいいんじゃないですか。

斉藤 ちょっと失礼して。あの演出っていうものが作品を前提としているとお考えにならないで。

東 ならないんじゃないですか。

斉藤 既成の演劇とか作品とか、一つの固まったものから離れて、演出っていうことを先に考え直してから始めて欲しいんです。コロンビア大学で事件があった時に、マルクーゼとノーマン・メイラーなんかがシンポジウムをしている中でいっていることなんですが、あの事件で一番素晴らしかったことは、最初学生達が始めて、それが何が目的であるか、どういうことなのか全然意識してこなかった、そしてやってるうちに結果として何か一つの意識を持った(太字:最初学生達が始めて、それが何が目的であるか、どういうことなのか全然意識してこなかった、そしてやってるうちに結果として何か一つの意識を持った)、そういうことをいってるわけです。それは明らかに演出がないっていえばいえるかもしれませんが、やはりその中で一つのそういう方向に持っていった、その過程として一つの演出っていうものが働くと……。

芥 それはだから、行動も認識であるという一つのテーゼみたいなものでしょう? 

斉藤 ええ、そういうものとしてですねえ、まあ演出っていうものを与えて欲しい……。

芥 それは自明の理なんだなあ。むしろぼく側から見ると。それはけっして作品にはならんだろうっていうことなんだ。バリケードが作品たりえるかといったら、それはたりえない。それが問題なんあってそれを作品にするには演出が必要だろうということがおぼろげに出てくるわで。(太字:バリケードが作品たりえるかといったら、それはたりえない。それが問題なんあってそれを作品にするには演出が必要だろうということがおぼろげに出てくるわけで。)

東 出てこないんじゃない? 

芥 あなたみたいな人は演出家になれないから、まあ芝居でもやって。

斉藤 その、作品とか何とかということを後にして、そういう一つの働きの中で働く、一つの力として演出っていうものを考えて、それぞれの分野でそれぞれにあると思うんですが、演出家っていうのをですねえ、何か作品の演出家ってお考えにならず、何か行動する一つの……。

芥 だから、神の代理人みたいなことから考えなければならないっていうことでしょうけども、何というかな、コロンビア大学にしろ東大にしろ一つの、そこにまあ、砂漠が顔出してきて裸の空間が出てくるわけだけど。それがいっこうに商品にもならなければ作品にもならない、そのへん行動すること自体が認識となって跳ねかえってくる。だから新しい一つのものを握むまなざしと、その握力みたいのが出てくるわけだけど、だったらそれを固めるみたいな一つの、まったくある意味では、あらゆるヒューマニズムを排除しえるものになるか、ならないのかみたいな。そうすると人類発生以前の空間なり時間にまで入らなきゃならない。だからマイナス面とプラス面が、無限大がくっついちゃうみたいな、そのへん自由に動きまわれる人間がはたして可能ならば演出も存在するし、当然人間のあらゆるみぶりやことばなりが戦略になるわけだし、そこでぼくは文学におぶさっていた演劇を逆に、文学そのものに変えてしまって……わかんない人は黙って勉強すりゃあいいんだ。

東 演出家とは何ですか? 演出とはなんですか? 

芥 知らんよ。そんなこと!

東 あなたは何と思うんですか? 

和田 ぼくなんか、演出と戦略という意味では何のイメージもないんですよ。つまりね、演出と戦術ということならば、在る程度喋れるという気がします。

芥 だって和田さんあたりは最初から政治にお手あげしたところから、ぬくぬく始めてるわけだから。

和田 つまり、演出っていうのは戦術的なことだと思うんです。(太字:つまり、演出っていうのは戦術的なことだと思うんです。)非常に政治的なことだと思うんですよね。その演出をぶち壊すものがあるのでね、それがつまり、ぼくの場合は役者です。演出っていうのは肉体じゃないわけですよ。肉体そのものじゃないわけですよ。それに対して、テレビでも演劇でも、そういう政治的なもの、演出の政治的なものを、やっぱりぶち壊わして行くのは役者だと思います。つまり役者の肉体というのは戦術を持たないわけですから。

芥 だって、肉体を喪失しなければテレビのスタジオに入れないっていう原則はどうするんですか、じゃあ!

和田 それはないでしょう。つまり、入っている限り肉体はあるのでね。

芥 いやないですよ。体と肉体とは違いますよ。

東 そういうふうに和田さんから聞くとね、俳優を前にした和田さんが叱陀激励(傍点:叱陀激励)して、要するに戦術を弄している和田さんのイメージが浮かびあがるんだけとね。ある種の戦術を壊すものに対して、それを防ぐなりね、あるいは新たに生み出すなり、そういうことができるんですか。

和田 いや、できる、できないの問題じゃなくてね、その二つが成り立っている関係っていうのはね、少なくともあると思う。

芥 テレビで肉体といえばコマーシャルの製品ぐらいしかないよ。冷蔵庫とかビール壜の方が主役なんだから。(太字:テレビで肉体といえばコマーシャルの製品ぐらいしかないよ。冷蔵庫とかビール壜の方が主役なんだから。)だから、冷蔵庫とかビール壜とか石けんとか、ああいうのが役者でしょう? テレビでは。

和田 いや、ぼくは役者と考えてない。あれはもの(傍点:もの)であってね。

芥 考えられない人は、もう商品しかつかえない人なんですよ、絶対。だから演出じゃなくて舞台監督でしかないでしょうねえ。ディレクターっていうのは全部舞台監督なんだから。だって、大衆をマッサージすることしかできないんだからどうしようもないでしょ。マッサージしないのが製品で、ものなんだから。

斉藤 少し、あの、その戦術とか戦略とか、そういうものがですねえ、もっと具体的に、社会的なところで運動している最首さんにですねえ、少し戦略とか演出とかについて、どう考えていらっしゃるか。

東 むしろ和田さんがね、俳優に対してどのようにね、戦術を行っているかということを聞きたいわけですよ。

芥 政治に敗北した人が戦術なんか持てる筈はないんだ。(太字:政治に敗北した人が戦術なんか持てる筈はないんだ。)

和田 つまり、政治に敗北したということも一種の政治的なことなんです。だから、それは何も政治がなくなったということではなくてね、敗北という形の政治なんですよ。

芥 鈴木志郎康を見てご覧なさいよ。

芥 敗者復活戦で少しは生きようということでしょう? 

和田 いや、そんなことはない、いやつまりあなたがいっているそれは非常におかしな考え方ですね。

芥 そう思いこんでるだけの話なんだから。

和田 つまり政治に敗北したことがね、あなたは政治がないと思っているわけですよ。そうじゃないですよ。つまり敗北したということはね、一種の政治なんですよ。

芥 NHKという政治がなければ……。

和田 いや、NHKということは持ち出た必要はないんです。まったく。

芥 政治っていうのは何も国会議事堂だけじゃあないですよ。

和田 たまたまぼくはNHKにいるだけであってね。実際にはぼくとNHKを関係づける必要は全然ないと思う、この場合は。

芥 だったら、あなたはあなたのNHKを創ればいいでしょう

和田 作っているわけです。

斉藤 実際に本当の意味で政治的な場所にいらっしゃる最首さんに一つ、そういうことを。

芥 一番文学的な次元にいる人なんだ!

斉藤 そうかもしれません。

芥 そういうことばっていうものをしらないからしょうがないんだろうけどね。

最首 ウーン(傍点:ウーン)、ちょっとまだ、とっかかりを握めないから、もう少し聞いて。

芥 自分の作品を石ころ(傍点:石ころ)を創ってボーン(傍点:ボーン)とほん投げる(傍点:ほん投げる)という、そのへんのポエジーというかロゴスというか、そのへん聞きたいな、ぼくは。

和田 でもさ、放り投げたってさ、受け取る方はあなたが放り投げるようには受け取らないもの。

芥 だが受け取る人間なんて最初から考えないわけだから。

高松 いや、もちろんとんでもないです。全然そんなの期待しちゃないです。ぼくが石ころに数字を書いてやるようなことには戦術はないわけです。

芥 何も期待なく置くわけでしょう? 

高松 むしろ、演出っていう場合に一つのコンセクションがあって、それで具体化するという一つの中間業者、ぼくはそれも信用しないですね。

芥 だから、数字を書いて置いてくって動作をどっかから要請されるわけでしょう? 目み見えない要請みたいなものが、つまり要請が問題なんですよ。それをどの程度多く集めることが可能か。それはむしろ選出かでしょうけど。ぼくが体育館を選ぶという理由、これは戦略でも何もない。ただ、ぼくは体育館でしかやる気がしない。というよりは、むしろやれないみたいな、どこからかの要請があるわけですよ。これは、むしろ自分がいるという恐怖みたいなものに近いですね。

高松 わかりました。そういう点じゃ、演出は自分なりにやっていると思いますね。

芥 その点、人間相手にしない演出みたいな。

高松 いや、人間というより自分をあんまり相手にしない。数字っていうのもいろんな種類があって、たとえば、零と一の間に無限大の数字がある、それで片方には必ずある一つ個体を成したような因数が無限大にある、それを片っぱしから結び合わせる。

東 だから、演出はどこにあるかね……たとえばぼくは和田さんの俳優っていうことは非常にわかって、目の前に俳優がダーッと揃った時にぼくは始まるわけですよ。現にやってるシーンで、ある俳優が人を殺すというシーンがあるわけです。ナイフで。そうすると俳優が、要するに観客の女の子をナイフで刺しちゃって、傷ついちゃっているわけですよ。と、女の子は泣く。非常にうろたえるわけです。その時ぼくはどうしたらいいのかわからなくなって一体演出っていうのはあるのか、ないのかって考え、

芥 君がわかんなくなっちゃうから演出が必要なんだよ!

東 映画にマラー・サドっていうのがあってマラーとサドとシャーロット・コーディーが出てきて大変興味深く見たけれど、シャーロット・コーディーはあさしく俳優だなあって感じがしたわけです。何ゆえに彼女はナイフを持って殺しにいったかシャーロット・コーディー自身はまったく良くわかっていないわです。で、そこにサドがいて、サドは演出家なのか、最後まで見極めようと見ているけどわかんないわけです。しかし精神病院の中であれを上演したということは、作家というよりも演出家であったろうという気もするわけです。しかし、シャーロット・コーディーがマラーを刺しにいった時サドは何をしているかというと何もしていないわけですよ。何かしろといってないわけです。その寸法の時に彼女が街をふらふら歩いてナイフ屋の親父がナイフを差し出すとき、サドがひょろひょろ(傍点:ひょろひょろ)っと寄っていって彼女に渡そう、渡すまいとして、いつのまにかシャーロット・コーディーがそれを握っているという時にぼくはものすごい演出を感じたけど。つまり、そういう場合演出家っていうのは何をいってどうしてどうできるか。何もできないんじゃないか。演出なんてどこにあるのか俳優の肉体の前にね。

和田 いや、演出なんてないですよ。

東 ないということをいいたいんです。

和田 ないけどね、あることだってあるわけですよ。まあ、あなたは芝居でいったらぼくも芝居でいえばね、演出っていうのは芝居でいえばね、たとえばシラノ・ド・ベルジュラックのシラノなんです。

芥 自分が演出家であることをやめた時に演出家になれるぐらいは自明の理なんだよ、これは。(太字:自分が演出家であることをやめた時に演出家になれるぐらいは自明の理なんだよ、これは。)

和田 つまりかれは何ものもなしえてないわけよ。橋渡しをするだけでしょ? 触媒というか、つまりかれがいたからね、ロクサーヌと何とかっていう男がある、つまり存在になれたわけでしょ? そういうもんだと思うわけです。

芥 自己を放棄したところから自己を取り戻せるという、この逆説でしょ、問題は。だから、たとえばテレビなんかの場合、全共闘の一人がメットかぶって棒持って入っていって、勝手なことをやったらおしまいになっちゃうわけでしょう? すぐ違う放送に切替ちゃうわけでしょう? 

東 でも切替えるのは一回だけでね。

芥 だからそれは、もう最初から何ものもなしえてないということの証明でしかないわけでね。ぼくの芝居に機動隊が百人きたっていっこうに差しつかえありませんよ。

和田 切替わったら切替わった放送があるわけでね。

東 差しさわりがない程つまらないんじゃない? 

芥 おもしろい、つまらないで芝居やってんじゃない、バカ!!(太字:おもしろい、つまらないで芝居やってんじゃない、バカ!!)

斉藤 まあ少し、そういう否定っていうものからですねえ、現代の状況がレポルトの時代だっていわれるようなところで大学を否定し、あるいは既成の画廊を否定し……。

芥 否定するんじゃないですよ。むしろ興味がないっていうことです。

高松 否定じゃないんですねえ。

芥 ね? !このへんのところがわからないと駄目ですねえ。やっぱり。

高松 だから、やっぱり反抗っていうことは根源的反抗だと思うんです。(太字:だから、やっぱり反抗っていうことは根源的反抗だと思うんです。)だからやたらと現象的なところで捕らえるとね、とんでもないことになる。

斉藤 私もそういうような意味でいってるわけじゃないんですが、現象としてはそういうふうにして現れてくるわけです。

高松 否定するんだったらば実際に画廊にゲバ棒持っていくな美術館に押しかけて……。

芥 それは否定の自己証明ですからねえ、くだらないんですよ、作品にはならないんですよ。

東 だからたとえば、和田さんは俳優だっていって、ぼくも俳優だっていって、一体なんだろうっていうのを皆んなもっとはっきりさせた方がいいんじゃない? 演出するかどうかわかんないけど、いる時に向き合うってのは何かって、はっきりさせた方がいいんじゃない? 

芥 向き合ったものがとるべき手段であって、そういう名称がなければ自分の存在が保てない人はテレビにいくべきなんですよ。ぼくは相手が誰であろうといっこうにかまいませんよ。

東 いや、ぼくは、はっきりしないとやりずらいわけですよ。

芥 だったら君は一生懸命観察しなけりゃいけない。だから演出家がいるとすれば、君は演出家にその人の要請を与えているわけだよ。

東 観察する程のことは。いや、ぼくは今、演出を試みている。

斉藤 何か新しい、現象的に何か、いろいろ否定したり、あるいは運動したりしているところに一つの、その自分の中からそういうものを動かす力っていうものが実際どういうものを対象にしてそういうものが動いていくかっていうことをはっきりしていただくと演出っていうものの考え方が、それぞれの立場で出ていらっしゃると思うんですが。

芥 何をいってるのか、さっぱりわからない。

斉藤 今、一番関心ある、一番行動しているそのものにおいて、どういう姿勢をとっているか。

芥 だってぼくなんかのやってる仕事ったら、あらゆることに関心が持てないで猛烈な退屈さが襲ってくるから。

東 いや、ぼくはものすごく関心がある。現代っていう、今っていうものに、ものすごく関心があるわけ。いや、まったく退屈しない。ここにあるこの日本の、この現代、この時っていうのは興味がある。関心がある。ものすごく楽しくてしょうがない。

芥 そりゃそうでしょ? 政治にすら退屈するってことだからコンプレックスすら持ちえない対象だということね。

斉藤 今、自分に否定しているわけじゃないっておっしゃいましたが。

高松 やっぱし、口でいうとちょっと違っちゃうと思うんですねえ。つまりぼくは何かおもしろいもの、何か世の中にはおもしろいものも非常に退屈も蔓延しているわけで、確かに退屈が蔓延しているだろうけれども、でもまあ、そのまったく一様に描いて同じように退屈なんじゃなくてね、やっぱしパチンコ屋へいくよりテレビでナイターを見ている方がおもしろいとか、多少はあると思うんですね。そうやって、どんどんおもしろさを探っていくのか、あるいはますます退屈の方に下降していくのかっていうのは口でいうと同じことになっちゃうと思うんです。つまり、ことばは、二つのことばがあるけど、あの実際に、その本当の意図っていうのは一つなわけですよね。だからちょっといいにくいと思うんですね。

芥 要するに近代ってのは退屈でない人は、いっこうにもういいんだ。(太字:要するに近代ってのは退屈でない人は、いっこうにもういいんだ。)

斉藤 まあ、絵の方が実際にその画廊から出るっていう、その壁、壁面あるいは画面から出るっていう行動っていうのは何か自分以外の何かっていう。

芥 石を置いたところが画廊だみたいな、沈黙みたいなのがわかんないかなあ。

東 出る、出ないっていういい方をするからおかしいんでね。むしろ石を見つけたっていう時が重要で、その石がどこにあるかっていう時に、やっぱり画廊にはないですからねえ。その時に画廊から出た、出ないっていういい方をするとね、ものがわからなくなる。

高松 やっぱし歴史主義なんですよね。(太字:やっぱし歴史主義なんですよね。)

芥 むしろ画廊っていう方が虚構なんでしょう? ぼくらにとってみれば。まあ、歴史主義っていうと誤解されますからねえ。一種空間主義なんでしょうけど。

高松 やっばし、でなくて、歴史主義っていうことをあんまり考えたくない。ぼくがとっているのは歴史的な観点ないわけですよね。

芥 たとえば人間に部屋があること自体おかしいことで、当然いるところが部屋になるわけで。そうするといるところから出なければ部屋から出ることができない。当然死に至る病か発狂しか待っていないわけだから。

東 そういうけどもね、ここも部屋だと思うこともすごいわけですよ。

芥 君みたいに最初から負けた人間はそうしなさいよ。

東 自分がいるところが部屋だっていうふうに思っていいわけですよ。思ったらもっと拡がるわけです。

芥 思いなさいって! 一生懸命思いなさい!

東 思っているわけです!

高松 たとえば、ぼくがいったのは非常にざっぱくな歴史主義ね。そうじゃなくてぼくの場合たとえば美術のことをいえばね、セザンヌの一つ前に印象派があるんではなく龍安寺の石庭なんかがくるわけです。(太字:そうじゃなくてぼくの場合たとえば美術のことをいえばね、セザンヌの一つ前に印象派があるんではなく龍安寺の石庭なんかがくるわけです。)

芥 ただ、石になれる人間がその前に現れたらどうします? あなたの場合、ある程度自然にこびているわけですよね。人間にこびなくても石をつかうことに対して。 

高松 いや、それは人間にこびようが、石にこびようが、自然にこびようがやっぱしおなじだと思うんですよね。(太字:いや、それは人間にこびようが、石にこびようが、自然にこびようがやっぱしおなじだと思うんですよね。)

芥 アルタミラにしたって結局、自然にこびちゃったわけですからねえ。石をつかう、あなたは作品だ、石を置いたところが画廊だと沈黙でいった場合にしても、石は石でしかないわけで。だから、あなた自身が石になってしまうことが可能だとしたら、あなたはそれをやらなければならない。だから、そうやって石になれる人間をぼくは役者と呼ぶわけですよ。

高松 そうですね。

高松 でもねえ、やっぱりそういうふうに何かに自分が成りきれるという可能性を信じないですねえ。何からでも漏れちゃうっていうふうに考えたいし。(太字:何かに自分が成りきれるという可能性を信じないですねえ。何からでも漏れちゃうっていうふうに考えたいし。)だから、完全な恋愛はできないし、完全に何か一つの絶対を探求するようなことも信用できない。

斉藤 それじゃあ、その表現しようということは? 

高松 表現しようっていうことはないんです。つまり表現っていうのは内側にあるものを表面に出すことでしょう? それは全然ない。

斉藤 たとえばですねえ、少なくとも紙切れを会場に置いておくにしろですねえ、一応、展覧会っていうようなことで活動なさるわけですねえ、そういうことは、どういうことを目的として。

高松 展覧会ですか。それですねえ。やっぱしコミュニケーションっていう問題があるわけですねえ。だからコミュニケーションっていうことを考えると、ぼくはちょっと独立した何か意図があるような気がするんです。ぼくがものを作る一方にコミュニケーションしたいっていうことになる、これが完全に結びついてる欲望じゃない気がする。だからコミュニケーションが非常に自己目的化するような一つのものもあり、またもう一方にはやっぱしものに対する興味がある。それが何らかの形でお手々をつなぐわけですよ。そういう接点の時に展覧会っていうことをするわけですが、ただ展覧会の方法ってのはいくらでも本当はあると思うんですよ。まあ、ぼくはその場合、安易に選んでいるっていうことは確かでね。そうかといって展覧会の、あのやり方、つまり自分の作品のコミュニケーションの方法を徹底的に追求すると、これまた底なしの泥招だと思うんですね。もっと、おそらくより良いコミュニケーションの方法ってあると思うんです。

東 高松さんの場合、自分のものを見る人っていうイメージがあるわけですか。何かこうやって置いた時に、これをこういう人が見て、こういう人がいるみたいな
イメージってあるんですか。

高松 いや、あのね、自分の中に大体他人っているもんでしょ? (太字:いや、あのね、自分の中に大体他人っているもんでしょ? )その限りにおいてどうしてもそうならざろうをえないと思いますね。

芥 ですね!

芥 だから、コミュニケーションをもらうっていう心情をどこまでテメエでぶった切れるかで決まっちゃうんですよ。どこまで、断絶のまま自分がそこにいつづけることができるか、それが最大のコミュニケーションになって跳ねかえってくる。だから現実程のファシズムはないわけで。ファシズムなんて、まだヒューマニズムなんで。(太字:だから現実程のファシズムはないわけで。ファシズムなんて、まだヒューマニズムなんで。) たとえばヒットラーなんて人間が自己内部の病的なものを断ち切るために何万人っていうユダヤを殺さなければならなかったわけで、そのへんシューレーは一匹も殺さないで自己の内部の病的なものを切るわけだから。そのへんのところがわからないやつは屑だ。だから黒木和雄が駄自になったんだ、あの人は嘆いたから。

東 もともと、駄目だったんじゃない? 

斉藤 まあ、歴史意識がないとか、政治家が逃げていくからとか、そういう話がいろいろ出てきましたが菅さんとか最首さんは。

芥 君よりは、でもわかっていた。悲しいかな! だから芸術はファシズムになっちゃうんですよって、嘆いたんだから、ぼくの前で。

菅 どこでかみ合うかわかんないですが、演出とかあるいは戦略とまったく関係ないんです、芸術っていうのはね。(太字:演出とかあるいは戦略とまったく関係ないんです、芸術っていうのはね。)つまり歴史意識みたいなことをね、つなげて喋れっていわれると何を喋っていいのかわからんわけですよ。歴史意識っていうのはつまり、認識の問題でしょ? それと芸術っていうのは関係ないんだなあ。

芥 だから役に立つ認識、役に立たない認識っていうのは当然現れるわけでしょ? だから歴史っていうことばを時間と人間だと捕えるやつは役に立たないわけで。(太字:だから歴史っていうことばを時間と人間だと捕えるやつは役に立たないわけで。)少なくとも場所と人間のバトルの連続が歴史なんで、何かをなさんとする人にとってはね。それは、なそうと思ってなすんじゃなくて、どこからか要請がきちゃうわけで、その要請がきた人間は結局、役を与えられた人間ということで役者っていうことになるわけですよ。丁度トランプの役札と素札の違いであるわけで。たとえば労働者が他のものになれる筈がない。ただ、労働者であることをやめることはできるわけだ。自分が芸術家であることをやめることもできるわけで、やめる動作が自己否定っていうことで、今は、やっているわけでしょうけど。自己否定っていうのは結局、歴史に対するいけにえだから。(太字:自己否定っていうのは結局、歴史に対するいけにえだから。)

東 もうちょっとおもしろい話をしようよ。

芥 自分がいけにえにならない限りどうしようもないんでしょう? そのへんがイサクとアブラハムの関係なんでね、人間がイサクにならなければならないって、さっき高松さんがおっしゃったわけだ。だって人と場所の直面があるから、そこに設けられた虚構っていうものを排除するわけでしょう? いわゆる大学という虚構ね、場所と人間が直面するから、それが起こるんですよ、だから、あれが歴史なんですよ。

高松 ぼくはそういう点で日本のジャーナリズムで一番頭にくんのは、たとえば、まあ、実存主義だ、構造主義があったと、で構造主義がでてくると、もう実存的なことばをつかうだけで古いとくる、ところがねえ、構造主義の中にも実存主義が生きている面が非常にある、それを抹殺しようとしてかかるんです、だから日本の歴史、文化っていうのは猛烈に薄くなるわけです。流行現象と同じ、ミニスカートと同じになっちゃうわけです。

芥 そうそう! それは自分の中にいる他人ってうことですからねえ。

和田 ぼくはことばが多すぎると思います。日本の場合。(太字:ぼくはことばが多すぎると思います。日本の場合。)

東 和田さんのテレビん中のことばが、あっちゃうなんていうのはどういうことですか。

和田 いや、あるけど、そりゃあ多すぎるのでねえ。だからあの多すぎるのなら、多すぎるでねえ、氾監させた方がいいけど。

芥 だから、コマーシャルのないテレビは見る気がしないっていうのはそこに原因があるわけです。コマーシャルのないテレビって役者の出ないテレビ、二十四時間ののっペらぼうが映っている。

東 演出がないんじゃないかっていうと、ないからある。ことばが多すぎるんじゃないかっていうと多すぎるからもっとっていうような、なんか。

高松 ことばが多すぎるんじゃなくて、意味が多すぎる。記号が多すぎるんです。(太字:ことばが多すぎるんじゃなくて、意味が多すぎる。記号が多すぎるんです。)ええ。意味がなさすぎるんですよ。

芥 だって記号が多すぎる。

芥 だから道路端に投げ出された石ころっていうのは、ぼくから見れば一つのことばなんです。

和田 でもねえ。多いなら多いで、もっと多くした方がいいと思うんですよ。ぼくは。

東 どの程度?

和田 どの程度? 無限にもう。

芥 じゃあ、あなたが多くすればいい。人間っていうのは年とっちゃいけないな。私はテレビを愛しているって、なぜ一言いえないんだ!

和田 そんなこと、いわなくたってわかるんでしょ? 

斉藤 確かにですねえ、ことばいわゆる理念語っていうのか、意味のないことばだけが先に走っちゃった、(太字:ことばいわゆる理念語っていうのか、意味のないことばだけが先に走っちゃった、)ということがあると思うんです。そういったところで。

芥 そりゃ、あんたは黙ってりゃよろしい。失語症っていうのが大事なんだ。

和田 でも、その多くなったことばをね、少なくするわけにはいかないんだから。それだったら、もっとことばを氾濫させた方がいいということですよ。

斉藤 もっと自分のことばを持てっていうことですね。

和田 いや、ぼくがもっと氾濫させた方がいいっていうのは、つまり戦術っていうのはそういうことだと思うんですよ、逆にいえば。

芥 ぼくはことばなんか、全然つかった覚えはないですよ。ぼくがことばをつかうのは、ぼくの体育館とか喫茶店とか、そういう以外でことばをつかった覚えはなく、今ぼくは記号を吐いているんで。ただ、ぼくの記号の吐き方っていうのは、あんた達の時間とはまったく違うだけの話で。(太字:今ぼくは記号を吐いているんで。ただ、ぼくの記号の吐き方っていうのは、あんた達の時間とはまったく違うだけの話で。)

和田 じゃあ、もっと記号を吐いだらどうですか。

芥 だから吐いてるわけでしょ、こうやって。

和田 でも少ないですね。

芥 ほほう。そうですか。あなたは何一つおっしゃれない。むしろこの方がいいですね。

和田 ぼくは歴史主義じゃなくて地理主義です。(太字:ぼくは歴史主義じゃなくて地理主義です。)

芥 あなたは、そうしたらラッキーになる以外に手がないんだよ。

和田 いやそんなこといわれても幸福ですから。ぼくは今、歴史主義じゃなくて一種の地理主義だと思うんですよ。ことばを変えていえばね。だからそういう意味では高松さんに賛成だな。つまり、あなたのいったことに反対。

芥 チリは芥っていうんだ。ぼくは芥なんだ!

和田 つまり、さっきいった演出、戦略なんていうのが想像つかないっていうのは、戦略っていうのは一種の歴史主義なんていうところから出てくるのでね。ぼくには、まったくそれがないっていうのはやっぱりその戦術しかないです。あるのは戦術しかないっていうのは一種の地理主義じゃないかと思いますけども。(太字:あるのは戦術しかないっていうのは一種の地理主義じゃないかと思いますけども。)

芥 しょせんロボットめ!

高松 和田さんの戦術っていうものはどういうものに対する、どういう内容のものですか。

和田 ぼくの場合、俳優に対してです。

芥 俳優って誰ですか。

和田 つまり、いってみれば肉体に対してですよ。だから演出っていうのは肉体がないっていうことですよ。

芥 俳優っていうのは優れてあらず(傍点:あらず)って書くんでしょ・優秀さを排除する人間が俳優でしょ? (太字:俳優っていうのは優れてあらずって書くんでしょ・優秀さを排除する人間が俳優でしょ? )

和田 いってみればことばの氾濫であってね。だからそういう意味でね政治的っていうことはぼくはちょっと地理主義といったけど、ことばっていうのはどういうふうに喋ってもね、政治的なもんだと思うんです。

芥 ことばじゃなくて心です。ことばなんて人間が喋れる筈はないんだよ。ことばが喋れれば大体人間なんてのは、芝居なんかやったりしないんだから。大体、NHKっていうのは人買いの部落じゃないですか。人買いの部落が金で人を買っているだけじゃないんですか。(太字:大体、NHKっていうのは人買いの部落じゃないですか。人買いの部落が金で人を買っているだけじゃないんですか。)

和田 NHK出す必要ないんですよ。

斉藤 それじゃ、和田さんの場合、戦術と演出はあるけど戦略はない。その場合、できた作品で戦術をつかって俳優と対決したその先には何があるんですか。

和田 その先は無限にあるでしょうねえ。死ぬまで。

芥 舞台監督の次元で演出だの戦略だのってのは、まったく何も興味ないわけだ。それは!

斉藤 コミュニケーションとか、そういうことを意味しているんですか。

芥 たとえば、戦争が始まれば将校にしかなれない男でしょう? 

和田 だから、さっきいったシラノ・ド・ベルジュラックっていうのはね、何ものも自分はやってないけどあるものを生み出したわけでしょ? 

芥 え? 今はシラノ・ド・ベルジュラックなんていってるけど、戦争が始まったら将較か軍曹かなんかになるんだから。それはそれでいいんだよ。

斉藤 そういうこととしてあるわけですね? 

東 だから、ぼくがいってるのはね、シラノはわかったけど、つまりシャーロット・コーディーが刺しにいく時にね、何ものをもしなかったサドっていうのは、演出としてはどうですか。その時にね、演出は何をなしえるか聞きたいわけです。

芥 政治がとだえたら軍曹にしか……。

和田 いや、何ものもなしえないわけです。

東 なしえないでよ? なしえないのに戦術がなしえるというんですか。

芥 だから、あなたNHK、菊と刀を持っているわけでしょ? 

和田 ちょっと一人にして欲しいですね。

芥 そういうことをいっちゃいけないのだ。大体一人なりの人間なんて、ありゃあせんのだ! いや、同時にいうべきなんです。こういうことは。

東 いや、和田さんが選んでいいわけです。どっちか指名して。

最首 芥君さ、頭が悪いっていうこと三回ぐらいだったらいいけどさ、どういうことなんだ、それ。

芥 だって、三人いっぺんにいわれるとわかんないっていうからしょうがないでしょ。そんなんで演出家になれますか。役者ってのは五人なら五人が同時に動いているわけですよ!それがどうして三人にいわれたからってわからないんですか。役者ってのは全部同時にいってるんですよ。

最首 ただ、何かその、芥君のいっているのは人間性の洞察に欠けているっていうことの意味で頭が悪いっていってるの? 

芥 現前が見えないということです!(太字:現前が見えないということです!)

最首 現前が見えない? 見えないってどういうこと

和田 見えなくなって幸せですよ見えたら大変ですよ。

芥 だから、ある意味であなたから見れば搾取階級以外の何ものでもないっていうことですよ。

和田 いいじゃないですか。搾取階級はっきりさせれば、闘う相手がはっきりするし、ぼくはもっとはっきりさせたいと思います、そういう意味では。もっとはっきりさせたいです。

芥 だから、あなたは闘えないって、ぼくはいったわけです。例えば三島由紀夫ですら刃物を持たなければ肉体として存在できないわけですよ。(太字:例えば三島由紀夫ですら刃物を持たなければ肉体として存在できないわけですよ。)あの人は筋肉しかないから。

和田 三島由紀夫出す必要はないんじゃないんですか。何も今。ぼくと喋っているわけですから。

東 出したいわけですよ。受け入れたっていいじゃないですか。あの、さっきの話ですが、どのういうふうに。

和田 はい。だからシラノ・ド・ベルジュラックっていうのはね、あのドラマの中ではね、チューブの役割しかはたしてないわけです。

芥 誰がシラノ・ド・ベルジュラックを演じた場合ですか。誰も演じていないシラノ・ド・ベルジュラックを、どうこういう権利はまったくあなたにはないんだ。

和田 あ、シラノ? 誰でもいいです。それは。いっこうにかまわないです。そんなことは。誰でもいいでしょう、あなたでもかまわない。

芥 ぼくもいいわけですか。ぼくが今、シラノだったらどうするんですか。

和田 え、今シラノになれる筈ないでしょう、やってないもの。

芥 ぼくはシラノ、ぼくはシラノだっていってんだから、ぼくはシラノでしょう? じゃあ、あなたはバカなんだ。それがわかんなくちゃ、ねえ?!

東 高松さん、石を相手にした時、困っちゃわないですか。何か手持無沙汰じゃないですか。

高松 手持無沙汰ってどういう意味ですか。

芥 たとえば玉音放送なんか聞いている父親達を見ていると、ぼくは天皇になった気分になるわけで。ぼくは家を出るっていうのは天皇になった時、家を出るわけで、しかも天皇であることすら自分で排除した場合、どうしたって要請がくるわけで。

東 いや、どうしていいか、わかんなくなるわけです。

高松 どうしていいのか。

東 うん、でもどうしようかなあって、たとえば、ぼくはしようがないからことばを、こういうことばをいったらいいんじゃないかとか、こういうふうに動いたらいいんじゃないかとか、こうしたらいいんじゃないかとか、いおうとするといっちゃった後、やっぱり後悔しちゃってやめてくれってどんどんわからなくなるわけです。

和田 それは、あなたことば貧しいからじゃない? もっとふやした方がいい。

東 ことばを持てばいいわけですか。ぼくは。

和田 ぼくは持てばいいと思う、演出家だったら。もっとふやしたらいいと思います。あなた困るのはやっぱり、ことばがないからじゃないですか。

東 じゃ、ことばの貧しい人間は演出家になれないですか。なりにくいですか。

和田 なりにくいっていうか、つまり、その戦術が思いつかなくなるでしょうねえ。

芥 あなた、で演出家なんですか。だって精神病院一つ作れない人がなんで演出家なんですか。私は舞台監督であるってどうしていわないんですか。

和田 それは良くわからないけど。

和田 いや、それいってもいいですよ。でも、そんなこといわなくったってあなたにはわかっているんじゃないですか。

芥 じゃあ、いいなさい。わ た し は ぶ た い か ん と く で す ! は い !(太字:じゃあ、いいなさい。わ た し は ぶ た い か ん と く で す ! は い !)

斉藤 それで東さんは戦略っていうことはどう考えるんですか。戦術っていうことに関していろいろ出てきましたけど。

芥 いえないんですか。

芥 その沈黙がことばなんだ!な? 

東 ウーン(傍点:ウーン)。やっぱり手持無沙汰になるわけでしょう? そう俳優が。つまり肉体がね。和田さんのことばだけど、和田さんのことばだけど、肉体がね何かやりだすんじゃないかっていうふうに、こう茫然と期待しているわけです。期待しかないです、やるんじゃないかなあっていう。

和田 だけど、その期待がいけないんじゃない? もっとぶち壊されないと、肉体に。

東 いや、だからつまり期待が成就した時ぶち壊されるんじゃない? 期待も何もなくなるんじゃない? ぼくはあわててもう、やっぱりこう、うろたえるんじゃない? 壊されるんじゃない? 

和田 それも一つの壊され方ですね。

東 だから、戦略というとね、戦術というとね、わかんないしね、こうどうしたらいいかとはっきりいってもらいたいわけ。和田さんことばっていうけどね、ことば、そうかなあっていう感じでねえ、何か。

斉藤 やっぱり戦術とか戦略とかを自分対俳優の中で考えるわけですが……

東 いや、だから今、戦略ということば聞けばね、ぼくもやっぱり生存競争から免れらえぬという実感しかないわけです。つまり、生存競争の中でね、やっばり自分が戦略を弄さずにはいられないわけです。これ、彼がいうようにね、体育館を選んだり喫茶店を選んだり、自分の劇場を作ったり、テレビを選んだりとかね。

芥 選ぶんじゃなくて、ぼくの目の前に体育館が訪れることだけだということすらわからないわけだ。

東 いや、そういう訪れ方はしないんです。もうね、まさしくやっぱりそれは生存競争ですよ。

芥 政治に守られている以上、生存競争なんてありえないだろう? 政治なんて、しょせん生存競争に勝てない人間が選ぶんだから。(太字:政治に守られている以上、生存競争なんてありえないだろう? 政治なんて、しょせん生存競争に勝てない人間が選ぶんだから。) 

和田 今のそのことばはいいですね。一つ良かった。

芥 あたりまえだ、そんなの。

編集部 管孝行さんは今まで随分、読書新聞なんかに昔よく、いわゆる小劇場を批判したようなことをいろいろ書いていられたけど、少し喋ってください。

芥 読書新聞がなければ喋れんのだろう、どうせ。喋れたらみものだ。

斉藤 戦略っていうタイトルが非常に曖昧でですねえ、それぞれ皆んなはっきりしないままにいるわけなんですが。

和田 曖昧というより、ぼくはないといってるんですよ。

芥 俳優しか相手にできない人間などは演出家でも何でもないといってるじゃない か、さっきから。

東 あなたは俳優でしょう? 誰にも選ばれていないでしょう? 

高松 生存競争っていうのは何に生き延びる生存ですか。

芥 役札だといってるだろう? 

東 現代ですよ。今ですよ。時ですよ。

芥 バカな!!

菅 生きるだけだったら、ほっといたって生きてるわけでしょう

東 いや、そんなことないと思います。

管 そういう意味じゃさ、あの非常に警察国家じみてるかもしれないけどさ、生かしといてぐらい、くれるわけよ、こういう管理社会ってのは。だから生存競争っていうふうには。

東 だから、管理社会といっちゃえばそうだろうけどね。

芥 たらふく喰えば、誰だって天皇になってしまうわけだろう。なぜわからんのだ。ランボーの一節もわからんのか。砂漠で貧しい家族が青い果実をたらふく喰らったっていう。

菅 もうちょっとね、つまり、ただあなたはその、演出家、おれは演出家だっていう時とね、その、この現代に生きるっていうこととが重ね合わさるところがあるわけでしょう? 

東 重ね合わさるっていっちゃうと何かこうはっきりしちゃってさ、おかしく、何か。

菅 うん、おかしいんだけどもさ。

東 どっちかいっても、どっちっておかしいっていうか、非常に曖昧で、でたらめじゃないですか。

芥 その曖昧さが退屈になってくるわけだ。全部が曖昧なんだ。

最首 芥君には退屈の範囲がありますか。

芥 ないよ! 退屈が無限大だから、マイナス無限大に変えるんだ。

高松 現代に生きるないってどういうことですか。

東 感じないっていうことじゃないですか。

芥 現代に生きてない人間なんていなかったんだよ。

東 完全に感じれないっていうことじゃないですか。

芥 現代が不安なのは生命そのもので、自分自身が生命の不安を覆いきれないから何かを借りるわけだよ。NHKとかテレビとか、国家とか政治とか。(太字:現代が不安なのは生命そのもので、自分自身が生命の不安を覆いきれないから何かを借りるわけだよ。)

高松 それは無限大でしょう、結局。

斉藤 まあ、いろいろ話が出ましたが、芥さん、それじゃ戦略とかいうものに否定論あると思うんですが。

芥 今やってるじゃないか! やってることを口でいうなんて。

斉藤 具体的にもう一度、はっきり話してもらいたい。今、現在やっていることが戦略だとおっしゃるわけですね。

芥 バカ!! 勉強しろ、もう少し。

斉藤 あなたは戦略あると思っているわけ。

芥 年がら年中闘っているのに、どうして戦略も何もあるんだ。

斉藤 ないわけですね。じゃあ、戦略はないという考えですね。

芥 すべてがそうだ。何でここにこうビール壜があるんだってことだって、もうしょうがないわげでしょ? 

和田 それは戦略ですか。ビール壜が目の前にあるってのは。あなたの程度に移りましたね。あなたに合せてるんですよ。そんなことわかってるでしょ。最初からぼく勝ってる筈なんだから。

芥 バカな!! そうやって記号しか吐けないのか。

和田 認めるって、最初から認めてますよ。あなたってどうしてそんな勝った負けたの話をするんですか。ちっとも面白くないですね、敵か味方かなんていう話は。

芥 ぼくに合せたら負けですよ。合せないこと。合せた時、あなたが敗北を認めた時で、ぼくの戦略が対象に移るわけです。ぼくは対象のある話し方しかしないから。

斉藤 芥さんのこと指しますと、こう一瞬一瞬を闘っていらっしゃるっていう。

芥 そうです。現代ってのはちっともおもしろくないでしょう? 

和田 それが良くわからないんだ。ぼくには血があるんだしねえ。

芥 たとえば、自分の血をどこに吹き飛んでしまったのかということがぼくには問題ですよ。たとえば戦略の話をするならば、ぼくの眼をひくっていうものはぼくの血がべったりくっついているわけだよ。全部。

東 いや、そんなことよりもおれが聞きたいのはさ、和田さんがNHKの中でね「一の糸」とか、あのう「文五捕物枯」と「竜馬が行く」とかやって、おもしろいかどうかって聞きたいわけですよ。

芥 そいつを離すまでだ。で元に戻した時、一つのことばが現れて来るわけだからさ。それはそうでしょう? 全部ひっこんじゃうわけだから。残ったのは筋肉と心臓と骨だけだ。ところが心臓ってのは血液がなくなったから何を送り出すんだ、じゃあ。ぼくの注意をひくなり、政治なり、ぼくの血がべったりくっついているわけだ。

和田 おもしろいですよ。だって戦略を考えるとおもしろくないんだなあ。でも戦術ならおもしろいんじゃない? いかなることをやっても戦術だけだったら。

東 それは和田さんだけの、和田さんだけの、おもしろさですか。

和田 それでいいんじゃないですか。

芥 それが天皇なんです。いっておくけれど。すべて自分の目に触れる者が自分の血がつくっている。そうでしょ? だって血のある人間なんて誰もいないわけだから。問題は自分の血がくっついているすべて、元の自分に戻せばいいわけだ。それが闘いというもんで、それにしか戦略とか演出とか現れてこない!実はこうやってぼくが喋っているのはぼくの血がつくった人間がたまたまぼくの目の前に二人いるからぼくは喋ってるんで。(太字:実はこうやってぼくが喋っているのはぼくの血がつくった人間がたまたまぼくの目の前に二人いるからぼくは喋ってるんで。)ま、高松君なり、最首君なりが。しかし自分の血を見つける動作ですからね。吹きとんでしまった。ぼくの心臓は、ぼくの血を欲しているわけだから。それが友情もコミュニケーションも何もないでしょう? 

和田 あなたのいっていることは今の企業の考え方と同じですね。

芥 今の? 

和田 組織とかね、企業の考えている……

芥 それがどうした。おれには解説なんて不用だよ。感想述べたりなんかするんじゃない!

和田 解説いってるんじゃなくて感想です。

東 高松さんなんか、やるでしょ? 展覧会とか。と、ぼくなんか見てないわけですよ。と見てない人、見せたいと思ったりするわけですが。非常に単純な話だけど。

高松 まあ、どっちでもいいですねえ。偶然、こう入って来るような、まあ偶然目に触れれば、それはそれでいいと。

芥 出会いです。出会いにしか戦略なり演出なんてありえないんだ。(太字:出会いです。出会いにしか戦略なり演出なんてありえないんだ。)電車が入ってくることはありえないわけだろう? プレザンスの一角が崩れて電車が顔を出し、目の前に現れる、たとえば“安保”っていう電車が入ってくる、突然プレザンスが崩れて、その出会いに対して戦略なんかがある筈で。たとえば、その“安保”っていう電車の中で、どうも自分の血で真赤になって入って来る以上、黙っているわけにはいかないわけ。

高松 ぼくはね、あの世界があるでしょ、一番素晴らしいっていうことは地球上じゃ地球ですね。地球においてもっとも素晴らしい絵画というのは、彫刻というのは、地球そのもの。(太字:地球においてもっとも素晴らしい絵画というのは、彫刻というのは、地球そのもの。)でも、それは見れますね。

芥 地球を見るには一回地球の外へ出なければならないだろう。

高松 いやが応でも。

芥 そうです! 見なければならないわけです。当然! 月へアポロが行ったってのは物質が月へ届いたっていうだけで、ぼく達はとうに太陽圏の外へ出てるじゃないですか!

高松 そういういいか方もできますね。

芥 それをなぜわからんのだ! 単なる物質が届いただけの話だろう? あんなものは。

高松 だから、やっぱり何か、特定のものに対するね、あの、愛着なんて全然ないです。

芥 それが一晩中でテレビ中継やってる人間なんて、もうどうしようもない! アハハハハ 最初から物質に対する敗北っていうんだ、そういうのは。

東 だから地球をね、そういうその、月に地理っていうだけでいったらね、地理だけで、やっぱり。

芥 地球や太陽じゃ、自分の血が赤く見えないの? 大島渚の「少年」じゃ、ちゃんと、おれはアンドロメダからきたっていってるじゃないか。アンドロメダから地球に降りてこない限り、地球じゃ何もできないよ。それは、だから奴隷っていうんだ。できない人間を。「愛する地球」っていう本がちゃんと出てくる。ぼくは「輝く大地」って本、書こうと思ったけど、あいつは「愛する大地」って本、書いちゃった。

高松 地理、地理って物質的なことで、現象的なことをで捕らえる……。

東 時間に囚われざるをえない自分っていう、自分をぼくは非常にこう、いらだたしく……。

高松 時間? 何ですか?

東 気にしなけりゃいけない自分っていうのにいらだつわけです。地球って、こういいきってね。こう、地球っていった場合。

高松 でも時間ってのはさ、空間の中にあるでしょ? 時間って空間の中に常にあるでしょ? 時間っていうの。空間から離して考えたりするわけ? (太字:でも時間ってのはさ、空間の中にあるでしょ? 時間って空間の中に常にあるでしょ? )

東 いや、考えたりしないけどさ。人間って考えちゃうんじゃない? そんなふうにいいきれないんじゃない? 

高松 時間を? ぼくは時間なんて抽象してどうでも考えられますね。で何かものに対する時間しかないわけでしょ? 気温の変化とか、そんなことで始めて時間がある。ま、多くの人は全部時計の動き方が時間だけども、実際そうでもないですよね。やっぱり石の時間、植物の時間と。

芥 ぼくは「輝く大地」って本、書こうと思ったけど、あいつは「愛する大地」って本書いちゃった。

東 非常にテレビに近いですね。

高松 どうしてテレビに……。

東 何となく、そういう感じだな。

芥 へへへへへ。

高松 全然わかんない。いや、時間てのはふつう多くの人は時計だと思ってんだけど。そうじゃなくて、やっぱりビールの気の抜け方とか。

芥 時間ってのは文明でしょ? 演繹法なんだよ。(太字:時間ってのは文明でしょ? 演繹法なんだよ。)演繹法なんて役に立つ筈ないじゃないか。あらゆる演繹法ってのは虚構で、その頂点が政治なんだ。

高松 もう一丁、ぼくがもう少し具体的にいうとね。おもしろいのはやっぱりあの、今まで知らなかったことに触れるのが一番面白いですね。自分が。

東 書いているわけでしょ? 作ってるわけでしょ? 

芥 人間の側から作れる現実ってのは……。

高松 まあ、何か瞬間瞬間、でも出てこないかなって……でも、そんなに書いちゃいないですよ。

東 それを信じてるわけでしょ? 何かこう、知らないことに出会えるって。それを信じているわけですか? 

芥 おそらく芸術ってのは絶対ありえないだろうけど。もし芸術がありえるとしたら人間の側から作った芸術なんだ。

東 非常に似てる。ぼくと同じなのかな。

高松 でも、しっちゃったら終わりですよ。

芥 バリケードが芸術や作品にならんのは、あれは必ず潰されてしまうからだ。(太字:バリケードが芸術や作品にならんのは、あれは必ず潰されてしまうからだ。)こちら側から作れる現実っていうのができた時、それが芸術になるわけで。だからピラミッド以外、ある意味で芸術ってのはない。

高松 期待が成就したら、もう駄目なんだ。ほとんどそうでしょ皆んな。(太字:期待が成就したら、もう駄目なんだ。ほとんどそうでしょ皆んな。)あたりまえのこといってるんです。ぼく非常に個性的なことなんて何もないですよ。何にもいうべき個性なんてないです。

芥 時間を抹消した存在するものが芸術なんだ!出会いの連続が歴史なんで、時間なんて当然ないわけだ。だから大島渚が「新宿泥棒日記」で時計を壊す場面を作るわけでしょ? ま、ありゃちょっと国土共同体をつかっちゃったから三島には一歩もいえない映画だったけど。

東 ここでこう演出なんていっちゃうと、あんまり格好良くないけど。こう、どうするんですか期待の中で。

芥 アンドロメダからきた人間に、どうして地球上の時代があてはまるんだ、大体!

高松 ま、時々、一枚皮をペロッと剝いたりぐらいのことはしますけど。その程度ですね。剝けないこともあるし、そう何枚も何枚もどんどん、そんなあなた、ぼくの前に新しい皮が出てきそうにも。

芥 出会いへの期待がパトスなんでしょ? 

東 ということは剝けても、剝けなくてもいいというわけですね? 

高松 え、そうです。

芥 自分の内部に無数の他人のいるみたいなことが無い限り、それは無理なんだ。自分の内部に自分きりいないってのは、それはもう奴隷以外の何ものでもない。(太字:自分の内部に自分きりいないってのは、それはもう奴隷以外の何ものでもない。)でサルトルがいったわけでしょ? 意識から認識が切れてしまった。意識ってのは興味だけど、興味の対象がないわけで。だからすべてに興味を持つわけで、それをオールマイティにいうのが文化になったわけで。それが人間の歴史に一致していたという話だけで。

東 ぼくが聞きたいのはね、更に剝けなかった時にね、剥けないってことを、あの、あっさりしていられるかどうかって。

高松 いやいや、あのね。それがやっぱし大事だと思うんです。あのねえ、バッチリ自分が思うまま剝けないわけです。剝けなかったら剝けないで、その下には何があるかっていう期待くらいは、少なくともその顔の下にあるわけでしょ? それで充分です。

東 それで充分ですか 

和田 思うところがなければ、そういうまた、あれもないわけですね。作用も逆にいえば。

菅 そのことをあらかじめ戦略とか歴史意識とかいうふうにしちゃうとね。そういう問題じゃないわけでしょ? 

東 だから非常にぶざまなのは、やっぱり思いすぎが強すぎるんじゃない? 

和田 それはわかんない。

東 いや、ぼくは高松さんなんか見ていると何かこう、思いすぎちゃってるから。何かこう剝けないのかなあっていう気がしちゃって。

芥 それはかまわないんだよ。人間の歴史ってのは闘いの歴史なんだから。人間以外のものに対する。ところが政治なんて人間に対してしか闘いを持てないことに対して問題があるわけだ。(太字:人間の歴史ってのは闘いの歴史なんだから。人間以外のものに対する。ところが政治なんて人間に対してしか闘いを持てないことに対して問題があるわけだ。)おそらく高松君なんてのは、いつだってアナキストになれるわけで、人の一匹や二匹殺せるんだから。人の一匹や二匹も殺せない人ってのは駄目なんだ。軍曹にならなきゃ殺せない人はね。たえず通りすがりの人を殺そうとしない限り、道端に石ころをぶん投げる動作なんて生まれてきやしないんだ。それだから、それがことばだというんだ。ことばってのは記号でなくて「律法」なんだから。

東 剝けた時にはね、戦略とか演出とか戦術とかいっていいしね。

高松 剝けた時にはね、剝けた瞬間はおしまいです。

東 いっていいわけです。演出しました。戦略がありました。戦術がありましたと、剝けなかった時にね、いかにたえるかと、ぼくはね、若いからなれていないわけですよ。

芥 日本の民主主義なんてたかだか数ページの「平和憲法」っていうことばで成り立っているわけだ。それがことばっていうんだ。

高松 ぼく、あの、今ちょっと間違えた。あの剝けない方がいいんです。剝けない皮程。やっぱしぼくは、おもしろいですね。

芥 あたりまえだ。それは!

和田 だから先方が俳優としてさ、肉体が強固であればある程、やっぱりおもしろいですね。向こうが肉体として強固であればある程おもしろいですね。

芥 俳優じゃないってんだ、あんたのつかってんのは。

東 あ、それはそうですよね。でも強固だってこと、どこで確かめるわけですか。俳優の。

芥 山椒大夫の人買いだっていってんだろう。

和田 だから剝けないという……。

芥 剝ける筈ないじゃないか。

東 でも、そんな大した俳優いないんじゃないですか。

和田 いや、いますよ。肉体がある限りどうにもならない部分ってのは。

東 具体的にいってどういう俳優? 

和田 具体的な名前? 具体的な名前あげる必要ないんじゃない? この場合。

芥 それには素戔嗚尊にならなければならない!

東 いや、ちょっと聞きたいわけです。たとえば、ぼくシャーロット・コーディーとか山口二矢なんていうのに肉体を感じるけどね。

芥 アハハハハ。

和田 でも、俳優な以上、そういうことってあるんじゃないですか。だから俳優なんです。

東 ぼくは、はっきりいえるわけですよ。肉体を持っている、剝けにくいっていうことは、しかし和田さんは誰にいえるわけですか。どの俳優に。

和田 大体役者には。くだらない役者ってのは演出家になれる役者なんですよね。(太字:くだらない役者ってのは演出家になれる役者なんですよね。)

東 でも演出家みたいな俳優が多すぎるんじゃないですか。

和田 それはそうですね!

斉藤 菅さんはそれじゃあ、その具体的に作品を、何を対象として作られるわけですか。

菅 対象として 決まった対象なんて。

斉藤 演出家の方がですねえ、あの役者を前にして。それから石ころを前にして何かをするって。そういう。

菅 それはその時その時で違うしね。でやっぱし一般的に何かっていったら、何か邪魔なもの、つっかかった時にさ。それをつまり作品、たとえば字を書くっていうことを選ぶと決まったわけでもないわけですよ。つまり職業と。和田さんがたとえば、あの名前をつかえば明らかにテレビの演出家っていうような形で、ぼくは作家だというふうには作家でないと思っているし、和田さんだってどう思ってられるかしりませんよ。しかし外からそういうこと、くっつけようとすればくっつくわけです。

東 戦略があるとすれば剝けない時、ぼくは戦術ですよ。

高松 ぼくはどうも、戦略戦術っていうことばがどうもわかんない。

菅 わかんあいっていうのかね。困っちゃうんだな。つまり……

東 自分でことば作ったらどういうことばになるんですか。たとえば、作れるわけでしょ、今。

菅 むりやり作ったって。それは方法とか、そういうつまらんこというより仕方ないでしょう? 

東 いや、だからいっちゃっていいんじゃない。方法ですか。

斉藤 方法でもいいんです。その人なりに。

東 どういう方法があるわけですか。

菅 何で、そうつまり、一般的にそういうものが、あの、成り立つって考えるんですか。

東 いや、一般的に成り立ったってかまわないじゃないですか。菅さんの中で成り立てば。どういうふうに成り立っているかしりたいわけですよ。非常にしりたいわけです。

芥 だから、あなた、サラリーマンってこと証明されたいわけだ。(太字:だから、あなた、サラリーマンってこと証明されたいわけだ。)そうだ。

斉藤 まあ、一つ作品をお書きになる経験からどういうものをこう、自分がこう一つアプローチしていったか。

東 菅さんは何ですか。あの、演出家じゃないわけでしょう? 

菅 演出家じゃないです。だから、何ですかって……。

東 何もないわけですか。

菅 何もないっていってもらっていいと思いますね。作品を書いたって作家っていうんだったら……何で何かでなければならないんですか。

東 つまり演出と戦略とにこだわってるわけです。

菅 そういう、こだわらないっていう約束で出席したんですから。何ものかを約束されんだったら、おれはその時で変るし、外から名前をつけられる……。

東 じゃ、菅さんとしては、しかしめがねが菅さんと思われるのは非常にいやなんじゃない? 今ここにある髪の毛とこの肉体をさ。菅さんだと思われたら非常に不愉快じゃない。

芥 そんなことはどうでもいいんだよ。

菅 ま、そりゃ人がどう思うか、しょうがねえやな。それは。だけどさ、あの、しょうがないでしょ? 

東 しょうがないといっていいわけですか。

芥 そういうのが気になる人はテレビに行けばいいんだよ。

高松 いや、肉体は自分だと思っていますね。ぼくは、しかし職業は自分であるかどうか、良くわからない。

芥 肉体は何でできあがっているんですか。肉と骨と心臓でしょ? 

高松 意識もありますね。

芥 そう、それをつなぐのが問題なわけでしょ? さっき、ぼくがいったのは、ぼくの興味をひくすべてが、ぼくの血がべったりついている。それを剝がした時、ぼくはことばである。握むんです。(太字:ぼくの興味をひくすべてが、ぼくの血がべったりついている。それを剝がした時、ぼくはことばである。握むんです。)

和田 でも、ぼくはつないでもしょうがないと思うけどな。そんなもの。

芥 ま、こんな話はしょせんわからんだろう、ロボットには。だから菅ちゃんが佇んでいるのと、高松ちゃんが佇んでいるのとは佇み、佇む時の、その空間が全然違う、ぼくはこっちから見てるわけだけど。

東 あの、ちゃんといわれて不愉快じゃないですか。

高松 え、何ですか。

東 高松ちゃんといわれて不愉快じゃないですか。

菅 ちゃん 全然不愉快じゃないですよ。

芥 なぜ違うっていうのかすら問題にできない人ってのは剝せないでしょ? 佇んででいること自体が闘いになってる人と、佇んでいることがが佇でいる以外のなにものでもない人と。

斉藤 しかし、確かに今、おっしゃった肉体と石と、それから血ですか、そういうものがばらばらと。

芥 たとえば、筋肉で骨を殺そう、殺そうとしている人間が一人いるわけだ。それを見た場合、今度肉体で骨を殺そう、殺そうとしなければそいつの前で一言もいえなくなるじゃないか!たとえば、筋肉で骨を殺そうとしている人間が土方っていうやつだが、ぼくは骨で筋肉を殺そうとしているわけだ。土方がNHKのテレビに出たこと見たことない、ぼくは。だったら、役者なんてあそこには一人もいない!(太字:土方がNHKのテレビに出たこと見たことない、ぼくは。だったら、役者なんてあそこには一人もいない!


菅 何か、つまり邪魔なものにひっかかった時、自分が気にせざるをえないものにひっかかった時に、それがある時には書くっていう行為に、その時、始めてどう書くっていう問題になる。(太字:何か、つまり邪魔なものにひっかかった時、自分が気にせざるをえないものにひっかかった時に、それがある時には書くっていう行為に、その時、始めてどう書くっていう問題になる。)その中身っていうのはその時その時で違うわけですよ。一回決めた方法がね。二度一二度通用するっていう問題ではないと、それを、どうですかって喋らされてもさ、それは喋れません。

斉藤 しかし、今また戦略っていうことにかかわって根源として何か戦略を考えていらっしゃいますか。それは一回一回の方法にすぎないわけですが。

芥 でも、政治ってのは一回通用した法則が最後まで続いているじゃありませんか。三千年の歴史がある。

菅 ものを作るっていう関係でいえば、一回一回の方法でしかないでしょ? それに後からね、名前をつければね、それはいろんな……そんなことは関心はないです。

芥 革命ってのは百年の歴史だけど、政治ってのは三千年の歴史があって、文学には一万年歴史がある。(太字:革命ってのは百年の歴史だけど、政治ってのは三千年の歴史があって、文学には一万年歴史がある。)だから、文学そのものを転覆させようとするやつは無限大の歴史を持たなけりゃなんないっていうわけだ。だから革命がいつも社会主義で、結局権力の中に埋没するのはそこに原因があるわけだ。

斉藤 そうすると一回一回戦略があるとおっしゃると。長い目で見た自分のですかねえ、ま、人生なりの歩みってものに対して、一回一回ばらばらになっていくとおっしゃるんですか。

菅 後から振りかえってね、意味つければ、そりゃつくでしょ。具体的に理論家とかね。つまりあるいは政治、家っていってもいいんだけど、そういうのを跡づけていくことに、それ程重大な関心を抱かないっていうことはありますね。誰かが跡づける、跡づけるっていうことがその人にとって意味を持つっていうことがあるかもしれない。

芥 自分で跡づけりゃいいだろう。

東 それは、今の日本ものすごくスタジオ的でしょ? テレビスタジオ、写真スタジオとか演劇スタジオとかさ。スタジオの中にいるのはね、写真家とモデルだけのわけでしょ? 

芥 私は自分では跡づけないっていうべきだ。

芥 日本てのはアメリカの辺境、ヨーロッパの辺境であり、アジアの辺境なんだ。(太字:日本てのはアメリカの辺境、ヨーロッパの辺境であり、アジアの辺境なんだ。)たとえば、大学出が大学に借金しかえしてないじゃないか。大体、大学生ってのは全部小学生と同じなんだから。奨学金もらってる。

東 結局、芥みたいにね、モデル、自分がモデルになっていくかね、どっちしかないんじゃないかと思うね。

菅 しかし、ぼくが何やったって自由だろうと思うしさ、やれなかったらやれなかったで、別にそれはそれで。

芥 やれない人間に自由なんてある筈ないだろう? 

斉藤 なぜ劇を書いたかっていうこと、全然問題じゃないわけそれはその時、絶対にそれ以外にないと自分で思ったからでね。

芥 人間は思い込む動物なんだ。

斉藤 非常に芸術家でいらっしゃるわけです。

芥 ア、ハハハハ。

東 また、非常に陳腐なことをいうとね。つまり舞台の上で殺人が実際起り、起りえるかって思えるか、思えないかってどうですか。

芥 舞台じゃなくたって起るよ。ぼくが人を殺した場合、交通事故以外の何ものでもないんだ。ぼくの手が車なんだから。

東 あなた現に殺してないじゃないですか。意気がることもないんじゃないですか。いやいや、殺してもないんじゃない? 

芥 意気がっちゃいない、別に。真理をいってるだけだ。役者が人を殺した場合、それは殺人じゃない。交通事故と同じだ。

東 どうすんですか。交通事故にどのように立ち会えるわけ? 

芥 それにすら平然と佇んでいたい人間には、演出家にはなれない。

東 いや、平然と佇んだ方が演出家的じゃない? 

芥 むしろそういう場合を持ってくるのが演出家なんだ。だから君は演出家でも何でもないわけでしょう? 

東 あなたは俳優でしょう? 

芥 知らない、それは。ぼくはこうやって、ここにいるだけでしょ。

東 いるだけでしかないわけか。ぼくは演出家なわけですよ。非常に演出家なわけです。

芥 アハハハハ。

東 非常に演出家なわけです。

芥 でっかい声でいいなさい。

東 演出家なわけです。

芥 もっと。ほか。ちっちゃい。

東 演出家なわけなんだ。

芥 聞こえない。

東 演出家なわけなんだ。

芥 聞こえないなあ。もっと!!

東 演出家!!

芥 聞こえない。

東 演出家なわけなんだ。

芥 聞こえないなあ。

東 非常に、ぼくは演出家ですよ。演出家ですよ。あなたは俳優かもしれないが、俳優としては非常に魅力が……。

芥 聞こえないなあ。やっぱり演出家ってのはどうなんでしょうねえ。これはやっぱり、演出家ってのは記号じゃないですか。

高松 ぼくは肉体だけに興味があるような話には、これまた興味ないですねえ。(太字:ぼくは肉体だけに興味があるような話には、これまた興味ないですねえ。)

和田 あ、それだけに興味あるっていうわけじゃないんです。ぼくのいってるのは、つまり何か戦術のために肉体があるっていうことなんですがね。

芥 だって筋肉と骨と心臓ってのは無限な距離に……。

東 それから和田さんにいいたいのはね、演出は演出として、戦術は戦術としてあるだろうけども……。

和田 いや、戦術がなければ演出なんてない。

東 いや、だから戦術はあるだろうけども、自分の中の、さっきいった他人とかね、ある肉体があった時にね、戦術ってのは崩壊するわけでしょう? 

和田 崩壊するけども戦術がなくなるわけじゃない。無限に変化してくるわけで。変化するわけでしょ? その変化を、自分がいかに捕えていくことが一番、演出家としては重要な問題でしょ? 

和田 自分が捕えなくとも、いや応なく、つまりわかるんじゃない? そういうことは。自分に。捕えることなんて、あまり必要ないと思いますがね。俳優と演出家っていう関係では。

東 ぼくは非常にくどくって、情けなくなるけどね。つまり俳優がね、あるシーンで実際に殺した時にね。演出家は何をなしえるかっていうことを聞きたいわけです。つまり俳優がね、誰かを殺すっていうシーンでね、実際誰か、本当に殺した時にね、演出家ってのは何をなしえるかって聞きたいわけです。

和田 それは事故です。一種の事故でしょ? 

東 事放っていうことは孕むわけでしょ? 今の演劇っていうのか、今のテレビ、今、まさに今っていう時はね、その事故を孕みえるわけでしょ? 演出家、これからの演出家ってのは事故をね、事故をも受けとめざるをえない。

芥 バッハが一番うまかったのは、バッハの生きていた時代、教会のオルガンを弾く職人だったっていうことはどうしてですか。じゃあ。

和田 いや、同じかどうかはわからないけど。いることは事実よね。介在しているわけですよ。介在しているだけで別に孕んでいるわけじゃないです。

芥 教会のオルガン弾きが一番バッハがうまいっていうのはどういうわけだろう。

東 だから、その事故をね、どのようにしょいこんでいるかっていうのが問題なんじゃない? 

芥 あなたの話を聞くと、バッハが自分でオルガンを弾いた時、一番うまいっていう話になっちゃうでしょ?

和田 どうして飛びこんでいく必要があるんですか。

東 和田さんのいう戦術が一番崩壊するのは事故が起こった時? 

芥 教会のオルガン弾きが一番うまかったっていうのは、しょせん、もう事故が崩壊したっていうことでしょ。

和田 崩壊するっていうのは戦術がなくなった……。

芥 教会のオルガン弾きが一番バッハがうまかったいうのは、しょせん、もう事故が崩壊したっていうことでしょ。

東 あ、じゃあ、変化するっていうことね、つまり、戦術が変化する時はね、役者の肉体よりは、今はね、事故の方が激しいんじゃない? 

芥 事故が崩壊してきたっていうことが勝負の終わりなんだ。

和田 いや、それは互角でしょう。だから戦術っていうと非常に政治的だから。いや、政治的なものをぶち壊すのが肉体なんですよ。俳優なんですよ。だから、それが何も、それをぶち壊してどちらか消えるわけじゃないからね。

芥 ハハハハハ。

東 俳優の肉体の中にね、政治が起りうる場合があるわけでしょ? 

和田 政治が起りうるっていうことは、ぼくはないと思いますね。そういう俳優ってのは、実にくだらないんじゃない? 実際は。

東 じゃ、たとえば、刺すっていうことはどうですか。事故でしょ? 

和田 事故ですよね。そして政治的なことじゃないんじゃないですか。別に。

東 しかし、今の事故ってすべて政治的じゃない? 

和田 ま、そういう意味でね。

東 交通事故も何も含めて、事故ってのはかなり政治的じゃない? 

和田 交通事故が政治ってどういうこと? 

東 警察の前に、きょう何人っていうふうに出るし、写真家が写真撮るし、ニュース記事になるし。

和田 でも、それは政治なんです。政治的っていうことじゃなくて。

東 あ、そうか。政治ですよ。

和田 うん、政治。それはくだらないっていってるんだ。

芥 演出っていうことを前提にしてれば、それすら政治になるっていうわけです。

東 政治的になりえないわけですか。今日の事故は。

和田 えっ、政治的になれないと思います。それは政治の問題だと思います。政治のプランと切り離していってるわけじゃなくて、それは政治だと思いますね。それは政治的ってのはもう少し楽しいことじゃない? 

芥 だから、偶然を政治することだってありえるわけです。

斉藤 少し、あの話を新鮮な空気を送っていただくために、最首さん、今まで皆さんがささっきから喋ってることに対して発言を。

芥 そのへんの偶然という無秩序を政治できない人間は演出家になれない。だって、そうでしょ交通事故とか、何人とか、その種の人間がまったく予測しえないものすらもまつり治めなければならないわけで。それだけいえばこっちが現実にすることは不可能でしょう? 

東 あなた、この前“へア”というのを、あの“新劇”の中の論文書いた人でしょ? “へア”はおもしろくないですか。おもしろくないって書いてあったけど。

斉藤 最初はおもしろかったです。

東 だんだんおもしろくなくなったって、どうして? 

芥 たとえば、人にきさま人間性のロボットだっていわれて、どうやって否定するかってことだ。(太字:たとえば、人にきさま人間性のロボットだっていわれて、どうやって否定するかってことだ。)

斉藤 あそこに書いてあったんですけどね、やっぱり……

東 うん、書いてあったですね。いやあ、あれには異議が。もっとおもしろくなるし、もっとおもしろいんじゃないかって気がしたんですけど。

斉藤 そうなんですけど。評判がたつわけですね、そうすると皆んなおもしろい、おもしろいって、期待があるからだんだんなれあいになって、最初にもっていったその一つの焦点がなくなるわけです。

芥 そうすると、今、和田勉のなら和田勉のやっている仕事をコンピューターが、そっくりやれるわけだから。そうするとあなたはロボット以外の何ものでもないわけだ。

和田 ぼくがコンピューターになればいいわけですよ。これは、実に簡単なことなんですよ。

東 実にさびしいことじゃない? 

和田 さびしい? さびしいことと……。

芥 だったら、私はNHKのディレクターっていうコンピューターですっていえばいいわけだ。

和田 そんなこと、わかっているじゃありませんか。あなたには。

芥 当然。だからいうんだ。人間を相手にする時は自尊心をつつきさえすればよろしい。ところが我々は人間なんか相手にしてる暇はないんだ。

和田 あ、わかった。暴力ということで、あの、演出ってことでさ。つまり俳優は暴力なんですよ。つまり戦術ってのはね、その暴力を……。

東 いや、暴力っていうより暴動ですよ。

和田 いやいや、ちょっと待って。暴力なんです。だから、いかにね、かわかすとか、そういうことです。演出の問題てのは。だから戦術しかないわけですよ。だから向うが暴力的であればある程、いいわけです。

東 いや、力より動きじゃない? 肉体ってのは力より動きじゃない? だから、和田さんは肉体が暴力っていうけど暴動ですよ。

芥 暴力っていうのは輝しいものなんです!ところが日本人っていうのは暴力を保ちえない。ライフル魔の、あの連続射殺事件がちっとも暴力じゃないっていうのは、じゃあ、何なんだ。あれは春歌の現れ以外の何ものでもないだろう。

東 いや、非常に暴力だと思う。

芥 ハハハハハ。結局、事物に先行された肉体ってのは、暴力にならないっていうことだ。(太字:結局、事物に先行された肉体ってのは、暴力にならないっていうことだ。)

東 存在できないわけですか。

芥 ピストルがなければ、自分が肉体として存在なかったわけだ。それを、そのまま伸ばせば刀が持たない時に肉体として存在できない三島と同じになる、でしょう? 三島の刀と肉体を結ぶのが天皇のわけです。

東 伸ばす必要もない。そうです。そうです。力でいいわけです。

高松 じゃ、三億円事件はどうです? 

芥 あれは虚構が虚構をつかった一つのレトリックですね。レトリックの問題です。あれは。あれば文学でいえば文章法の問題ですよ。レトリック!!

高松 でも、事実がやっぱり残るでしょう? トリック、トリックてのは事実が後で、まあ。

芥 いつだって残るでしょう? ヒットラーのトリックだってあるわけだし。キリストっていうトリックだってあるわけだし、現実つてのは虚構ですからねえ。いっておきますけど。

高松 まあ、そういうふうにいい出すとちょっとまた、ぼくのいい方とも違うことなんですがね。

芥 人間の手の触れ合うものっていうのが虚構なんです。いっておきますけど大学っていう虚構、会社っていう虚構、政治っていう虚構、そういう虚構を排除した場合バ*ホルなんなりが出てくるわけで、それをぼくは砂漠と呼ぶわけです。

高松 “一〇八”には、じゃあ虚構じゃない部分もあるわけですね。(太字:“一〇八”には、じゃあ虚構じゃない部分もあるわけですね。)

芥 あれば映画。ドキュメンタリーですよ。現実っていう映画の中のドキュメンタリーでしょ? さらに、その中のまた映画ってのはテレビでしょ?(太字:あれば映画。ドキュメンタリーですよ。現実っていう映画の中のドキュメンタリーでしょ? さらに、その中のまた映画ってのはテレビでしょ?) 映画の中の映画ですよ。で現実っていう映画をいかに映画でなくするみたいなことしかぼくに時興味ないわけで。最初の一歩が現実で、二歩目から虚構になっちやったら、もうおしまいだ。最初の一歩が虚構で、二歩目から現実以外の何ものでもありえない。

高松 でも、テレビなんでいうのは完全に観客が作ってますね。テレビってのは視聴率で作るんですか。大体。

東 でも、そんなことないんじゃない? 和田さんなんか。いや、それは以外にないと思うね。全然ないという気がするね。

高松 要するにテレビ見て、本当にねえ、衆愚政治のねえ、衆態政治が演じられているとしか、どうも見えない。

和田 でも逆に視聴率がテレビを作るなら簡単だと思いますよ。

高松 じゃ、簡単ですね。すごく簡単にできてるわ。テレビって。

高松 簡単に見えるね。

芥 簡単じゃない。絶対に、これは。

芥 完全に完全に視聴率が作ったら和田君なんてのはテレビ作れないからね。NHKは、そう視聴率ないんだから。

和田 だから、視聴率は作っているとは思ってませんけどね。ぼくは。

東 やあ、そりゃ、作ってないです。

高松 そうですかね。まあ、それじゃ完全にとはいわないです。

芥 ただ観客が作っているっていうことは現実ですよね。ぼくは、あれ、テレビ全然見ないから、あれだけど、観客が作ってたら、ああいうくだらないものしかできないっていうことだ。そうすると観客が作っている芸術ってのはヒューマニズムこと(太字:観客が作ってたら、ああいうくだらないものしかできないっていうことだ。そうすると観客が作っている芸術ってのはヒューマニズムこと)(傍点:ヒューマニズムこと)で、とそうするとモラルとしていいっていうことになるから。

東 和田さんのテレビの前に観客なんて誰もいないんじゃないんですか。

東 観客がいるっていうこと、和田さん確信持てないと思いますよ、やっぱり。

和田 いや、ぼくなんか考えることないもの。そんなこと。

東 考えなくたっていいわけですよ。観客なんて全然。

芥 そうすると、芸術ってのは絶対ヒューマニズムであっちゃいけないということです。(太字:芸術ってのは絶対ヒューマニズムであっちゃいけないということです。)何に、観客をある意味でよ空間的に殺すことが可能かうていうわけでしょ? 観客を観客としてですよ。最初から観客だ日なんて決めつけるような芸術なんてありゃあしないんだ。たえず、たとえばトランプにしても演出、その場面を作っていくのは役札が出るか出ないかで決まるわけですよ。と役札の存在ってのが演出になってきちゃうわけです。わかりますか。このへん。たとえば、東大全共闘が山本がつかまるかつかまらないかで動いちゃったりする。そうすると山本の存在が演出になってしまう。そのへん考えるべきなんです。(太字:東大全共闘が山本がつかまるかつかまらないかで動いちゃったりする。そうすると山本の存在が演出になってしまう。そのへん考えるべきなんです。)ぼくには、もっともどうでもいいことですが。

和田 それはそうだろうね。

高松 俳優の一人としてね。

芥 でかれが俳優でなく、かれがああいう共同幻想をまき起した、その幻想に対して、いかに対処するか、そのへんの存在が俳優っていうことになるわけです。だから、男優ってのは男が優れてると書くわけだけれど。むしろ、男にあらずの方が俳優の(傍点:あらずの方が俳優の)必要なもじゃないか、憂う方がね。いっこうに憂ない人ってやっぱり政治家だ。

東 俳優ってのは、人にあらず(傍点:あらず)して人に憂うって書くんじゃないですか。(太字:俳優ってのは、人にあらず(傍点:あらず)して人に憂うって書くんじゃないですか。)

芥 だって、こちら側から作れる現実ってのがおそらく芸術なんですからね。だから、結局フィクションになりきれる人間は俳優になるわけでしょ? だから、あらゆる暴力ってのはフィクションなんですよ。わかりますか。フィクションの暴力。だから、ゲバ棒持って何かやるっていうのも一つのフィクションでしょう? たとえば“平和憲法”っていうフィクションのもとに二十何年間、一億人が住むわけだ。そうすると暴力ってのは絶対不滅だっていうことになるわけだ。これは憲法だって文学なんだから。たとえばマルクスっていう“資本論”あれも文学なんだ。だから・マキャベリやアダム・スミス読まないで“資本論”読んだって何にもならないわけだ。そのへん問題があるわけだ。だから、そういう幻想をたえず動かすことのできるものなり、ことばなり肉体なり何かがありさえすれば、こちらからも現実を作れるんじゃないかという一つの不可能性っていうのが出てくるわけで。そこから始めて闘いが始まり、戦略が始まり、演出が始まるわけで、それ以外は何でもありゃしない。風景をダイナマイトに変えるだけの力があるのは今、さしあたって全共闘だっていうことですよ。(太字:風景をダイナマイトに変えるだけの力があるのは今、さしあたって全共闘だっていうことですよ。)

和田 そうなるとすごくとも何ともないと思いますけどね。全共闘なんて風景だからすごいんでね。

芥 少なくとも日本でもっとも優れたドキュメンタリーを演じたのは全共関だげたじゃないですか!!アポロよりも、少なくとも。全共闘は人じゃないということを注目すべきですよ。群衆だということを。人間じゃない。大衆でもない。ありゃ群衆!(太字:全共闘は人じゃないということを注目すべきですよ。群衆だということを。人間じゃない。大衆でもない。ありゃ群衆!) だから、ぼくは人間を大衆とか、何とかととらないですげどね。群衆として捕えます。群衆理論ってのは今、やっぱり全然ないな。
 ぼくの芝居見にきたら観客は全部群衆に変えてあげようって一階級上にあげるわですよ。大衆ではなく群衆、何でもできるわけだ、群衆ってのは。略奪ってのは必ず群衆で行われているわけだから。大体、農耕民族に政治を教えたのは略奪民族でしょう? だから天皇もスギタイ民族じゃないかという説も成り立つぐらいだから。そうすると我々はたえず略奪しなければならないというわけで、それが物質的でないからこそ問題があるわけで、正統マルキシズムを敵にしなければならない。結局、友情を保ちながらも。でしょ? 物質は人間が流動するんじゃなくて、人間が手を触れる以前にものすごいスピードで走ってるわけだ。ぼくが来る以前にビール壜はもう、ポーンと飛んでくるわけだし、少なくともぼくがこうやって話してる間にも街は動いてるわけだ。そのへんが、ぼくは非常に気になるわけで。だから、ぼくは街に向ってこういうこといってるわけで。だから、やっぱり今、人間が何喋ろうが街に向っていってるから、おそらく喋りつづけるだろうということで。だから物質が流動すれば流動過程を経済と置きかえて、それを物質を資本にすることが可能だけれど、その前に、ものすごいスピードで走っている。事物になすすべのない人間は歴史に対しても当然、なすすべがないわけで。(太字:事物になすすべのない人間は歴史に対しても当然、なすすべがないわけで。)

高松 そりゃそうだ。そう、そりゃそうだ。

和田 その話、ちょっとおもしろい。それはそうだな。同感だな。ぼくも。

和田 そうだ。それは当然だと思います。

芥 あなた、たとえばNHKのコンクリートという事物があるわけです。

和田 それは……NHKはもういいんじゃないですか。

芥 それをブラウン管にのせたためしがないわけですよ。これは演出家でも戦略家でも何でもないわけです。

和田 でも、それはちょっと良くわからないですけど。

高松 NHKの番組なんかで今まで、その、あの、本当に事務所から受付から、いろいろ撮るのが最高のNHKの番組になるんじゃないかと……。

芥 なぜ、あの、受付嬢を撮らないんですか。

高松 NHK、特に最高幹部が“紅自歌合戦”を決めているのかなんでいうのをとらえるのが最高の番組じゃない?「紅白」よりずっといいや。

芥 なぜ、佐藤総理に演説させないんですか。NHKで。出たくないっていうの強引につれてくるべきでしょ、一国の首相がテレビにも出ないなんて。そんなバカな話ありますか。

和田 出てんじゃないですか、あれ(傍点:あれ)。

芥 一人でですよ。ぼくはテレビをつかって喋るっていわないですよ。いわせるのが義務ですよ。

和田 一人で喋ったこともありますよ。何喋ったか、ぼく聞いてなかったですから。わからなかったですけど。あんまり関心ないです、そういうことは。

芥 やっぱりロボットですか! 幻想体の頂点にいる人間をたえずひっぱってくるのが役目です。でしょ? テレビってのは見かけなんですよ。見かけ。だから人間がいなければ存在しないもんなんです。(太字:テレビってのは見かけなんですよ。見かけ。だから人間がいなければ存在しないもんなんです。)

和田 そうそう、見かけだからいいと思います。

芥 だから、そういうのはいっこうに文学になりません。それはマッサージですよね。マッサージがいない人間、透明人間なんか、“あんま”しないんだから。文学なんて人間がいなくとも、地球上コップだけんなっても存在するんですよ。コップからキリストが出てきちゃうんだから。ライオンきりいなくなっても、ライオンなかから政治家やキリストが出てくるんですからね。おそらく太賜系とアソドロメダがけんかしてんだから。だから人間が考えた時間の概念が役立つのは太陽系だけでしょ? ごく一部分ですよね。だってバクテリアには人間のつかった時間が役立たないわけでしょ? だから天と地が何に役立つかっていう問題が当然出てくるわけで。

和田 役立つ、役立たないかっていうのは大した問題じゃないんですか。

芥 ま、すべてを放棄した人間にしか役立たないということですね。すべてを放棄した人間、それは愛されるわけです。当然。たとえば、唐十郎っていうのは自分は“真空”だっていったわけだ。とすると、新宿の背景っていうのは“真空”の中に強引な庄力で入ってくるわけだ。それをことばで訴えて、ああいうことをやってるわけだ。だから、あの新宿の背景っていうのは、むしろ唐十郎の芝居ん中に出てくるっていうわけでしょ? それが唐十郎の理論で武器なわけで。ぼくは新宿なんでいう、ちっぽけなものにかかずりあっていられないっていうわけだ。地球そのものがあり、人間そのものがありの(太字:ありの)背景なりえなければならないというみたいな。だからテレビは何ら背景になりえないコケシですね。丁度コケシっていうのは結局、フェティシズム、偶像崇拝だから。結局宗教以外の何ものでもないわけでしょ? だからテレビっていうのは宗教ですよ。(太字:だからテレビは何ら背景になりえないコケシですね。丁度コケシっていうのは結局、フェティシズム、偶像崇拝だから。結局宗教以外の何ものでもないわけでしょ? だからテレビっていうのは宗教ですよ。)

和田 ああ、名言ですね。わかりました。それ、名言だと思います。

芥 NHK帰ったら皆んなにいってください。

和田 皆んな、うなずくと思いますね「その通りだ」、そしてあしたから勇気百倍するでしょう。そのことばを聞いて。

芥 そうです。それが人間のしあわせっていうんです。

和田 しあわせであった方がいいでしょ? 不幸であるより。でも、ぼくはそう思います。

芥 いえ、違います!

芥 しあわせになったものはいらないんですよ。たえず幻想やって、自殺しぬいているわけです。自分がしあわせになったからいらないんですよ。ただ革命やった人間が権力とって自分がしあわせになっちゃうと、後はもう法律作るだけでしょ? だって、治安維持法や治安警察法作ったのは、誰が作ったと思います? 護憲三派大学だよ。憲法守る名実、法律としてああいうの作るわけだ。そのへんね!!

斉藤 いろいろ全共関のことだとか、そう東大の事件とかが出ましたけれど、最後に一つ……。

最首 そうですねえ……。

芥 全共闘にしても宗教の枠から出てないみたいなあるんですけどね。だから、レーニンなんか、ものすごい変装がうまくて、あいつ、はげてたけど、かつらつけて出入りしたり、少なくともつかまるような人間は革命家でも何でもないわけでしょ、つかまった時から革命家であることをやめさせられるわけだから。逮捕されるわけだから。(太字:少なくともつかまるような人間は革命家でも何でもないわけでしょ、つかまった時から革命家であることをやめさせられるわけだから。逮捕されるわけだから。)

最首 ま、一ついえるのは東大闘争ってのは非常に作ってきた闘争だっていうことでしょうね。で、まあ、ほくなんか、それに作る方の意識もあるし、作られる方の意識もあるんですけどね。(太字:ま、一ついえるのは東大闘争つてのは非常に作ってきた闘争だっていうことでしょうね。
で、まあ、ほくなんか、それに作る方の意識もあるし、作られる方の意識もあるんですけどね。)ま、あんまり大したことではない。で、まあ中途半端な状態になってますけどね。ただ、ぼくが毎日カエルのオシッコやなんか四時間もとってきた者にとっては、やっぱりいろいろな、この、丁度今、芥君がいってるような、丁度、おなじような世界ってのは大学にあるわけですよ。おまえがバカであるとかわからない、おまえは何もわかっちゃいないって世界ってのは、ある価値意識の基においては強烈に成り立ってる世界があるわけです。大学ってのは。そういうのはやっぱりたたきつぶしたいという欲望だけでしょ? つまり近代合現主義とか何とかことばつかわなくてもね。もちろんペダンチックな世界ですよ。それをたたきつぶすに何があるかっていったら、別に何もないわけですがね。だから芥君の話聞いて、おもしろいところと全然卑俗なところがあいまぜになって入ってきますけどね。やっぱり、その、芥君がなぜタンタレスみたいにえいえい(傍点:えいえい)と喋りつづけなければいけないかっていうところは、以外と平凡なんじゃないかと思ってんだな、ぼくは。

芥 きちゃったからです。ぼくがここにきちゃったからです。きちゃった以上、だってこのテープは本になっちゃって、おれのこと全然しらない人間が見るわけでしょ?  きて黙ってんならこなけりゃいいんだから。ぼくはそう思う。だから、街頭ブランキズムってのがいっこうに起らないってのもそこらへんでしょ? だから、カルチェ・ラタン作ると関係ない人間が、やっぱりいっぱい押しよせてくるわけですよ。それらの人間をいっこうに、あの、兵士に変えることができないっていう、そのへんのロゴス不在っていうこと、ぼくは興味持つわけだけど。

最首 関係ないっていうこと、カルチェ・ラタンを作り出そうっていう方、非常にテクニカルな問題ですよね。東大闘争だって非常にテクエカルな、つまり、どれだけ何も別に戦略がないっていもいいけど。

芥 末端では結局、戦略がないと駄目でしょ末端における……。

最首 末端、末端っていうか……。

芥 現場ですよ。関係ない人間がくる。それをつぶそうとする人間がくる。武器になるもの、武器にならないものに当然分かれてしまう。武器になるものは全部武器に変える。身のまわりのいっさいを武器に変える。

最首 とうとう武器にもならなかったですけどね。

芥 武器に変えることができなかったあたりに結局、あれは認識闘争じゃなかったかっていうことになっちゃうわけで。たとえば、これがカルチェ・ラタンだったら全部武器に変わっちゃうわけでしょ? それは空間からの要請ですから。で兵士になる人間、ならない人間がいるわけですよ。そのへん再び街頭ブランキズムが出てこない限り駄目だということです。シュプレヒコールやスローガンや歌うたってる(傍点:歌うたってる)ぶんじゃどこだってできるんだから。いっさい歌うたわない、シュプレヒコールやらない。ただ、なすべきことはなす、その場でですよ。少なくとも、なすべきことをなせる人間が出てこない限り、これはどうしょうもないわけで。なせることしかなさないってのはあたりまえのことで、これは機械ができるっていうっていうです。なせることをなす、器械は自分でなすべきこと、なさざるべきことってわからんっていうわけでしょ? でモラルってのは、なすべきことだけをやるんだったから、いやしくも可能性としてね。機械が。で東大闘争が東大全共闘以外の何ものでもないということに、むしろ疑問を感ずるわけで。一時は東大闘争でなくなってきたわけでしょ? それが元の東大闘争にしてしまった、そのへんの結局、無秩序が現れるわけですけど、無秩序に対して恐怖しか感じない人間が結局、何でもかんでも収恰家になって、すっかり、見にいくっていうタイプになってしまった。そのへんでしょ!少なくとも無秩序こそが私の日常だっていう人間が、あまりにも少なすぎたっていうことでしょうねえ。だから結局、無秩序に対してどこまで自分の手を拡げることができるか!(太字:無秩序に対して恐怖しか感じない人間が結局、何でもかんでも収恰家になって、すっかり、見にいくっていうタイプになってしまった。そのへんでしょ!少なくとも無秩序こそが私の日常だっていう人間が、あまりにも少なすぎたっていうことでしょうねえ。だから結局、無秩序に対してどこまで自分の手を拡げることができるか!)だから、結局、究極ぼくは、あらゆる無秩序は全部、ぼくの血がべったりついているから、おれはそいつの血をまた元に戻さなきゃというわけで。それが認証ですよ。

高松 ただ、民衆革命といっても、あの、いろんな、こう、あの、その、地面でも層があるように、層があると思うんですよね。だから、まあ、東大関争つてのが非常に現実的なね、日常的なものとしてありながらまた、別に層でもって、ついには民衆革命になるような、いろんな層っていうのが……

芥 結局、層の問題ってのは、火山が爆発した時おしまいになるでしょ? だから、火山の方が秩序だったのか、本来の秩序だったのか。人間の生活の方が本来秩序だったのか。で火山の方が本来秩序だったわけでしょ? 

高松 いや、でもねえ、その火山の爆発の瞬間でさえ、今度タテの方向で層ができますからね。いろんな層が。いつ、どんな場合でも人間てのはそういう……

芥 だから、そういう層を存在させるものっていうのを、たえず追い求めていかなけれならないわけで。

高松 もちろん、そう、それ自身、だから火山みたいにタテの方に、横の層だったものをね。場合によってはタテに考えていかなければならないっていうこともあるけども。(太字:だから火山みたいにタテの方に、横の層だったものをね。場合によってはタテに考えていかなければならないっていうこともあるけども。)しかし、やっぱしね、だから、あの、やっぱし、でもぼく良くわからないけど東大関争、でも、やっぱし、でも東大の現実っていうやっから遊離されても何か、非常に心もとない気もする。つまり、不安な気もするし、そうかといってまた、認識がなくなるのも。認識のね、かなり上の層が稀薄になんのもやっぱし……。

芥 認識がなくなった時っていうのはありえないわけでしょ? 新しい時ってのは再び認識を課せられた時だから。それは当然厳しいわけですけど。たえず、たとえば、人間が水平に暮らしている。それはこれでいいんだろうかみたいなことがあるわけでしょ? 水平を保ってるものは、とみたいな。それは突然現れるわけでしょ? すると、びっくりしちゃったらもう敗北なんですよね。だから、ぼくは東大闘争ってのは本当にあたりまえだと思っていたわけですけれど。だから文化祭の準備して※けんだけの空間でしょ? 人間は。ある意味で群衆たりえない人間っていうわけですけど、それは。だから悪霊が悪霊でなくすることができたなら存在革命も可能だというわけですけど。依然として東大闘争や全共闘が悪霊としか扱われないということに対して、いかにこれを悪霊でなくするかみたいな。そのへん再び文学が現れてこなきゃならないと思うんですけどねえ。そのへんが結局、悪霊が文学がないっていう証明ですからね。相変らず、ああやってたくさんのことばが実際事物で出てくるわけでしょ? 記号でなくて。それに対して文学はなすすべがないわけですから、そうしないとやっぱり駄目だなあ……口ではそういうこといっておきながら何にやもやらない人を目の前に見ると、ぼくは噴然として卑俗なことばを吐くわけですけど。

高松 そういわないでください。ぼくなんか何にもやらないんだから。

芥 菅君にいってるんですから。

菅 一つ芥君に聞きたいのはね、さっきなすべきことっていういい方をしたでしょ? それはあなたのね、捕える世界の中でなすべきことって非常にモラリッシュなことばが出てきたんでさ、ややびっくりしたわけなんだけど。もう少し話して。

芥 それはキリストやマルクスが、キリストがキリストでない。ふつうの人間がキリストになっちゃう、マルクスっていうふつうの人間がマルクスになっちゃう、ニーチェっていうただの文献学者がニーチェになっちまう。そのへんのモラルです! 要請だ。

菅 誰かにやらされるんじゃなくて自分がなるっていうことだよね。

芥 要請を受けこたえるから役札になり役者になるわけでしょ? 

菅 その前に要請っていうからわかんなくなっちゃう。

芥 それはオイディプス以降でないとわかんないです。

東 つまり、彼はやっぱり堪えられなくなっていくものをどんどんふえたいわけです。(傍点:ふえたいわけです。)

芥 眼にガラスが入ってると、どうしても見えない、とガラスを剝ぎ取るわけだよ。それだよ。だから脳みそから直接出てくるわけだよ。それが目になるわけだ。そん時から始めてあれでしょ? 見えちゃうわけでしょ? 

最首 一つ東大関争で特徴的なのは、あの、ぼくらみたいに機構んなかにある程度の、今の、この社会のレベルでですね、機構んなかにちゃんとはめこまれてるんじゃなきゃ、そういう叛乱っていうことばが生じないっていうことを非常に明らかにしたわけですよ。だから大衆っていうのは叛乱っていうのが起せない。(太字:一つ東大関争で特徴的なのは、あの、ぼくらみたいに機構んなかにある程度の、今の、この社会のレベルでですね、機構んなかにちゃんとはめこまれてるんじゃなきゃ、そういう叛乱っていうことばが生じないっていうことを非常に明らかにしたわけですよ。だから大衆っていうのは叛乱っていうのが起せない。)ぼくはだから和田さんなんかの場合見ていると、そういうNHKなんかの叛乱なんてのは、そういうきちんと、本当に有力な歯車でない限り叛乱が起らないわけですよ。それがものすごい矛盾なわけですよね。たとえばどんなに駒場の学生が逆立ちしたって東大闘争ってのはでかくなんないんですよ。それがすごい矛盾でしょ? 向うは非常なテクニシャン、テクニシャンっていうのはブランキストっていうことですけどね。テクニシャンだから、たとえばマスコミなんかの問題にしたって今のデスク連中ってのは一番ぼくは興味あるわけですよ。そういうところがどういうふうに動くかと、たとえば東大全共闘の中でまあ、新劇、グループがね、いろんなこというわけでしょ? でその、マスコミ反戦労働者うんぬんといっても対象がないわけですよ、労働者うんぬんといってもね。そりゃ、テクニシャンとしてはいろんなところの、ま、デスクを何とかやるという方がもっとおもしろい。だから和田さんなんかぐらいのところがどう動くかの方が、ぼくらにとってはおもしろいわけです。ただ、それに至る、至る過程ってのは、ぼくが助手になったように、ちっとは、えいえいといろんなことをやらなけりゃならないわけで、それが矛盾だというわけですけどね。

芥 結局、学生運動そのものの持っている、いわゆるものっていうのは結果でしょ? 学生なかから、おそらくテロリストがたくさん出てくるわけで。当然。

最首 なかなか、日本は出てこないですねえ。

芥 アナキズム組織とテレウスが出てこなければならないわけです。むしろ、そして最後は結局、反革命にまわらなければならない。それは結局、ソビエトでもやったでしょ? 

和田 そうは出てこないんじゃないですか。

最首 日本は出てこない。

芥 たとえば、学生っていう青年貴族がおやじを殺そうとする。テロリストが当然出てくるわけで。

最首 当然じゃないんだなあ。

芥 出てこなければならないっていうことをいってるだけの話ですよ。要請として。

最首 ぼくは出てこないと思う。

芥 出てこない限り、相変らず三島が三島でありつづけてしまうっていうことです。だって、あなたと革命ってのを結びつけたのはまた、天皇なんだから。三島の論理でいえば、あいつと刀をむすびつけるのが刀であれば、あなた自身が刀になったっていう瞬間が訪れてこない限り駄目なわけで。

最首 つまり、出てこなけりゃいかんといってもテロリストが出てこなけりゃいかんといっても何の意味もないし。

芥 政治的には何の意味もないですよ。

最首 そこらへんをテクニック的にどうするかっていうのは。

芥 今の、ある向いてる方向をそのまま物理的に一直線に伸せばの話ですよ。そうすると単なるホモルーデンス以外の何ものでもないっていうことになるでしょ? 結局。何も遊び相手がなくなった、カエルの解剖してるのも、ちょっとそれだけじゃないんじゃないかみたいなことになって、当然国家を相手に遊ぶわけですよ、人間てのは。国家は一番遊ぶ相手としてはいいですからね。(太字:当然国家を相手に遊ぶわけですよ、人間てのは。国家は一番遊ぶ相手としてはいいですからね。)

最首 それはいいですね。

高松 そうですかね。ぼくはそのは思わない。

芥 そうです。国家てのは結局、自分の生活とすらも闘わなければならないわけだから。すると、自分が虚構になるわけですよ。生活から開放されると。

高松 国家が世界のすべてじゃないでしょ? もっと大きな世界もある。

芥 ないですよ! そりゃ。だからこそ、こうやってたんたん(傍点:たんたん)といってるわけですけど。

最首 ぼくはまた、芥君に怒られるかも知れないけど、あまり退屈だっていうことはないですねえ。

芥 国家の中に部屋があるんじゃなくて、むしろ自分の部屋を作ろうとするんだけど、壁は作れない。だから、風が吹きっさらしだ。それがバリケードとしてはポエジーがあるんで。結局、ホモルーデンスからホモルーデンスに変った、その間の空間の光っていうのが、まあ、ロゴスとしておもしろいってことだが、これはまあ、当然、年中やんなきゃならないことだから。 たとえばあれが作品になるには結局、あそこにいた人間が全員、この、性欲を催してきんたまが全部立っちゃうとかね、そういうふうになったらばね、ぼくの演劇よりはもっと演劇だね。だけどいっこうに何にもないわけだ。そのへん渋澤龍彦がいうわけでしょ? エロティックスのない計算なんてありえないみたいな。

高松 いや、ぼくはそれもすべてではないと思うな。

芥 でもですよ。結局、ある程度それが演劇になったならば、いわゆる内部の属性っていうものが吹き出てとないと駄目でしょ? 

高松 全部ね。もう全部。

芥 ね?! それが真空状態ですからね。真空状態作るんで、ぼくら。ま、相変らず政治ってのは一気圧の下で行われてることだから、まあ、ぼくは興味がない。空気すら事物だから。で空気を排除する肉体が出てきたら、やっぱりこれはいいですよ。もう土方の場合、もうそこまでいくわけで、土方の踊り見ながら、やっぱり、オナニーするような人間もいるわけで。

最首 ただ、ぼくはね、演劇っていうことで、まあ、パリなんかの五月革命で、ああいうのは全部演劇だっていったわけでしょ? ところが演劇ってのは、そういう二面をわきまえてやるやつがいたら、演劇にならないわけですよ。東大全共闘だってそうなわけですよ。(太字:ただ、ぼくはね、演劇っていうことで、まあ、パリなんかの五月革命で、ああいうのは全部演劇だっていったわけでしょ? ところが演劇つてのは、そういう二面をわきまえてやるやつがいたら、演劇にならないわけですよ。東大全共闘だってそうなわけですよ。)たとえば、セクトの連中の方がもっと、こう、思いつめてるし、何かことが起れば、たとえば、加藤との大衆団交なんかで涙ながしちゃうってのはセクトの連中なわけでしょ? そういうやつがいない限りは演劇ってのは成り立たないわけでしょ? だから、ぼくなんかにしてみれば、東大全共闘ってのはそういう両面をわきまえているやつが、あまりいないためにつぶれちゃうし、非常に、レポート一つ出してつぶれちゃうような全共闘メンバーがいるわけですよ。そういうのはまた、レポート出したって何したって、まあ、卑俗な話になりますけど、レポート出したってなんたって(傍点:レポート出したってなんたって)、こんなのはもう一つのルールであるというふうに成り立ったら、これはもう東大闘争ってのはまた、ないわけですよね。そのへんのかね合いが。

芥 なかったっていうことが結局、あの、作品にならないっていうことでしょ? たとえば、六○年安保が作品になりえなかったっていうのは国会の中に一歩も入れなかったわけで。だって、国会の中に入れなかったっていうことは留置場からレポート出すことでしょ!

高松 でもねえ、やっぱりぼくは、全共闘を見ているとことばを信用しすぎるようなところがある。ことばってのは半分しか信用できないと思うんですよ。(太字:でもねえ、やっぱりぼくは、全共闘を見ているとことばを信用しすぎるようなところがある。ことばってのは半分しか信用できないと思うんですよ。)だから、詩でも文学でもおなじだと思うんです。で、ものでもおなじだと思うんです。

芥 むしろ、今、詩は役に立たないっていうのはそのことをいってるわけでしょ? 散文でなければならない!

高松 でも、やっぱし東大全共闘をあんまり論じるような資格、全然ないんだけれど、ただ、やっぱし、あの、論理に徹しちゃうと非常に危険なんじゃないですか。

最首 論理に徹するっていうのは演出でしょ? 論理に徹するっていうのは演出なんですよ。東大全共闘においては全然論理でも何でもないですよ。(太字:論理に徹するっていうのは演出でしょ? 論理に徹するっていうのは演出なんですよ。東大全共闘においては全然論理でも何でもないですよ。)

芥 ぼくはただ、人間が論理だって決めたものは全然論理だと信用しないんです。人間にとって非論理でしかないものが論理なんです。人間にとって※※でしかないものが論理で、この鉄則をわきまえないと何もできない。

最首 ただ、非論理の※※に生きてるわけでしょ? 現実こそ論理論理で徹しているわけで。

斉藤 それはそうですね。実際、モラルとか。基本的な混沌なしにモラルをどんどんつみかさねているわけでしょ? 

芥 全共闘の非論理よりも三島の非論理の方が、ちょっと一枚うわ手なんじゃないかな。ぼくがのぞくとね。どっちが記号まで、どっちが非論理を記号までもってこられるか。だから、たとえば、全共闘は革命しか持ってこられないわけだけど。あいつの場合、天皇っていうのもってきている。革命の終った後のことまで、あいつは一応いうわけだ。そうすると日共と同じことになっちゃう。政権をとるっていうこと、とって何をやるのかっていうこと一言もいわないわけ。

菅 全共闘は革命っていってない。

最首 いってない。

芥 一応、何ていうのかな。まあ、ぼくにとってはどうでもいいけど。

和田 革命なんていってないですよ。

斉藤 セクトはいってるけど。

芥 ぼくのまわりはいってますよ。だから、ぼくは革命なんて起こらんよっていうわけでしょ。そっから始めようよってわけだ。

菅 あなた、そういうだけだよな。

芥 革命なんて起こるはずないんだ。あらゆる行為が革命なんだ。あらゆる行為が革命でしょ? 行動が革命にならなきゃ……

最首 そこまでいっちゃうと前後の意味がなくなっちゃうんだけど。

芥 だって、人間てのは全部革命家なんだから。だから、革命家であることをやめて、そのかわりラッキーっていうの、もらうわけでしょ? ラッキーっていうなにがつ(太字:なにがつ)を※※※っていうのは全部革命なんですからね、生まれた時から。

菅 やめたらラッキーになるって決まってないでしょ? 

芥 だって、行為から、その恐怖からのがれるわけでしょ? だから、NHK入るとか、テレビやるとか、そうやって一つのシェルターにもぐりこむわけだから。

最首 芥君はシェルターないの? シェルターはないの? 芥君にとっては。

芥 シェルターっていうのは……ぼくはわからんのですよ。シェルターになっちゃったら、ぼく、それ、いやだからまた、自分でぶっ壊さなきゃなんないわけでしょ? 

高松 でもね、自分で築くシェルターがあるようじゃ、芸術家じゃないですね。あったら、すぐとっぱらうような。(太字:でもね、自分で築くシェルターがあるようじゃ、芸術家じゃないですね。あったら、すぐとっぱらうような。)

芥 そりゃ、そうでしょ。

芥 だって、血がない人間にシェルターなんでないでしょ? 血を存続させるために食物を得たりするわけだから。だから、ぼくは、いつ死ぬかわかんないから、いつ死んでもいいようなことをやってるわけですよ。いつ死んだって、ぼくがここにいたっていうことになっちゃう。

菅 そういう限りじゃ論理的だよな。

芥 だって、いつ死ぬかわからないから、だから結局、生の苦悩と死の苦悩っていう二つの命題が人間に与えられるわけだ。生の苦悩っていうのは必ず政治につながり、殺りくの法悦をもって迎えられるわけだ。だから平和は必ず戦争を欲する。死の苦悩っていう問題っていうのは、これ、全員置きざりにしている。自分でいるか、いないかわかんない、いること自体が恐怖になる。それがむしろ死の苦悩の最初の入口だけど。たとえば、つげ義春が、それを少しやったわけでしょ? あいつは白土三平のページをめくる楽しみを奪って、コマからコマへ移る楽しみに変えてしまったわけだ。それをせんじつめればことばからことばヘ移る楽しみ、むしろあれは詩であり散文であるわけだけど、あそこにはまったく時間がない。いつ死んでもいい人間になっている。たとええれば、これは例が小さいんだけれど、むしろ死の苦悩と闘うのが文学であり、死の苦悩っていうのをごま化すのが政治であるわけで。生の苦悩っていうのは、突然とてつもない生の法悦をもって迎えられる。生がたえず、いじめられているのは時間だから、時間を排除して存荘するものっていうのを作りえた時、そいつは成就するわけだ。(太字:むしろあれは詩であり散文であるわけだけど、あそこにはまったく時間がない。いつ死んでもいい人間になっている。たとええれば、これは例が小さいんだけれど、むしろ死の苦悩と闘うのが文学であり、死の苦悩っていうのをごま化すのが政治であるわけで。生の苦悩っていうのは、突然とてつもない生の法悦をもって迎えられる。生がたえず、いじめられているのは時間だから、時間を排除して存荘するものっていうのを作りえた時、そいつは成就するわけだ。)だから当然仏教っていうのは時間がないでしょ? 仏っていうフィクションになった時、完成するわけですからね。ミイラになったりいろんなことやったりするわけだから。あれは芸術じゃないですけど、当然。ぼくなんか本当、いつ死んでもかまわないと思うわけだし。生の苦悩から開放されない限り、おそらく革命っていうのは起こらんのじゃないかっていうみたいな、そういう予感もある。

【座談会 再現編成 熊谷弘道】

(太字:)太字
(傍点:)文字に傍点。
※に関しては、「ことばがききとれませんでした」との記載有り
また、発言が重なる部分は、会話を再構成した部分がある


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