作品

芥正彦 -実録戯画- 秋の日に人質となりたる若きキリストの啓示

足立正生
美術手帳 / 1970年12月号 / 特集=行為する芸術家たち


時=一九七〇年十月七日午後二時
所=心なし風邪もよいの四谷見附より南下る路地裏にそびえる金銀箔看板かかりたる若きイエズスの隠舎の中、石ツブテ用歩道ブロック敷きつめたるステージ様ベッドテーブル炊事場に因われたるグランドピアノの前に礼拝告白室の会見所あつらえ、キリストとユダの顔見世。

若きキリスト= 芥正彦
ユダ=足立正生


ユダ (乳母車の中の赤児を指し)あなたの子か?

キリスト 人質なり。地球よりあずかった。

ユダ あなたの原理追求の在所について問いたし。あなたの何たるかを今問いたし。

キリスト 我は人を知りたいとは思わぬ。何故なら人間にものを教わったことがないからだ。見ることは知ることに同じ。そこに時間は介在せず。

ユダ 最近人に会いしか、家内外で?

キリスト 我に家なし。女は社会へ人質としてあずけたり。我がいる(傍点:いる)以外に、この世はなし。その考え以外に、掟は破れず。どのようにしてそう在り続けるかが問題なり。

ユダ 私もそう思う。同じ思想であなたと私が別々にいるのは何故だろうか?

キリスト 我関せず。

(キリスト自らアンプとマイクを設置し、感度をためす)


ユダ 映画という表現は、その九割以上がわたしに無縁の遺制の方法によって成り立っている。それを切り捨てることが、私の方法だと思っているが、いかに?

キリスト 映画はドアであり、我にはドアはない。

ユダ ドアとは、私が呼吸するこの現実空間を造形空間と言いかえ、その空間と私の間にある媒介項というほどのことなり。ドアの取っ払いは、“我在り”という第一原理によって可能となる。ドアである、現実のすべてを媒介項と規定し去ることが、今の私の方法なり。いかに……

(静かに、時報が二時を打つ)

あなたには媒介項がない。従ってドアはないとみえるが?

キリスト 出る出ない……ドア……媒介項とは何事なりや?

ユダ それに、身にしみついてくる、現実のすべてのアクタ。“我在り” というスピードと、アクタの身に付くスピードが一致する而上瞬間はたまたまある。その時には、ドアは介在しないと思うが?

キリスト 我、演劇人にあらず。

ユダ (キリストの左眼をおおう広い青アザを指し)それは何か?

キリスト 我、リンチに立ち会えり。

(ユダの心底を見透かすように、凝視し続けた後、やおら口を開く)


キリスト 映画はすべてひっくるめて、ブリューゲルの絵一枚ほどでしかなかろう。いや、そこにまで至らないものなり。映画で風景が裂けたら、見せてくれッ! ……我、世界には興味なし。

ユダ あなたのいう、世界とは?

キリスト 私が何の戦慄も感じないもの(傍点:もの)だ

ユダ あなた自身、世界ではないのか?

キリスト 我は人の子。

ユダ やはり、人質なのか?

キリスト 根こそぎの生身なり。生身のままオペラの中へ放り出された。この事実は、莫大な事実にもとずいて行なわれたのだと、我は思う。非人称のまま放り出された身体が、唯一己れを取りもどす過程を可能にする事実があるように。

ユダ 非人称というのが、世界として一番正確なもの(傍点:もの)なのだろうか?

キリスト 非人称のヴァギナが爆発して来る地点に、我は立とうとし、突っ走り、いや、突っ走ってはいない。すべてが己れを取り戻し、すべてが“私”だらけのところが世界なり。これ(コップ)、これ(レンガ)、これ(雑誌)もすべてが“私”。その中で、我は“私”なりと語り続けてゆく作業が、我が生なり。人間の大半は、“私”をもたずにくたばる。我は、“私”である人間に出会いたるは稀なり。……お前は誰だッ?

ユダ うん。

キリスト この問いには「うん」としか返答はかえらず、……しかし、物に問えば、物は光を投げてよこす。我が環境はそれを受けとめ、我が身体が動く。

ユダ 非人称ゆえにすべての“私”が命名可能だというのか?

キリスト 我、命名には興味なし。

ユダ 命名するという行為で“私”があるのではないだろうか? 不毛は私に“不毛”と命名しなければなるまい?

キリスト 不毛は、飢餓の恍惚なり。飢餓なくして生命の存在はなし!

ユダ 世界は、飢餓を先頭にして迫り来るものではないのか?

キリスト いや違う。実物の飢えなり。飢えを目前にして、初めて人間は“私”という発情が可能なり。……人間はチンパンジーではない。

ユダ チンパンジーでいることが幸せだとも聞こえる。

キリスト 我は、チンパンジーであることの恥辱に耐え得ず。我は、もっと取り引きするなり!

ユダ 取り引きとは?

キリスト (大上段の大身振りで)社会の九九・九九九パーセントの人間は人間扱いされぬ。(ザ・ピーナッツの『月かげのナポリ』が追いかける! 追いかける! 追いかける!と繰りかえし追いかける)

キリスト 私は社会のためには無為なり。それは社会が私に何もしてくれないからだ! 私に国家なぞありえないのは、国家が私を見れないからだ! それが王の論理だッ! 愛を裏切れるコトバを持ち来る奴こそ王なるぞッ! 愛の乞食なぞ原住民にくれてやったさッ クワッカックワッカックワッカックワッ……ネイティヴの祭りには、王たる我はまいらぬッ!

ユダ でも、キャピタルだから……

キリスト 我が坐るところこそキャピタルッ!

(キリストは、無限に無限則に多くの場所に坐っては走り、走っては坐る。ユダは、まだ、顔を上げていない)


ユダ して、取り引きとは?

キリスト 社会を人質にしたることによってくる取り引きなり。

ユダ 世界の逆転ではないのか。

キリスト イエス。だからこそしたがって、我は映像やフィルムとは無関係なり。

ユダ 当に彼岸のものなりと、私も思う。

キリスト ゆえに、我は手紙や日記を書かぬなり。

ユダ だが、私は語ることも行なうことも、手紙、日記の類としか思えず、ゆえに、私はドアを感得する。

キリスト ありとあらゆる映画は、原爆の一個で終わりなり。

例えば、ある下宿屋の一室から部屋を埋め尽くしてあまりある原稿用紙が発見されたということと、フィルムが同量でてきたということではケタが違うなり。フィルムならば、恐れるに足らず。

ユダ 原稿用紙なら恐いというのですか?

(キリスト、カッと眼を見開いて怒り、しばらく、口ごもり、やがて悲しそうにつぶやく)


キリスト 我は聖書の話を物語っている!

ユダ 聖書は恐いのか?

キリスト 恐くはない。そこには感動がある。感動のないところに、我、立会わず。
(キリストは瞑目しながら語る)

キリスト 生きることは、死よりの復権なり。現実に居続ける作業によって、死からも生命からも、永遠に追放される。その永遠をこそ己れのもの(傍点:己れのもの)にしなければ、未来を根こそぎにする作業を行なっているとは言えないなればなり。

現代は、人の時代なり。我は、人の子なり。なれば、我は現代に興味なし。タイクツが充満せる現代に……現代の風景のタイクツさが若干、心をうごかせるなり。
この椅子にこうして坐せるも、狂気の保育所の中に身を投じること、テーブルに向かうことは、群衆に対峙することなり。原爆は国家の未来を根だやしにせり。恍惚の砂漠をもたらせり。砂漠とは事物の恍惚なり。……そこで生命が発情していませり。
(「グッド・ナイトベイビー」の歌がかすかに礼拝告白室の雰囲気を険悪にする)


キリスト 映画は逃亡の書なり。我は、逃亡に全然興味なし。永遠の追放の掟を守った上でのドロップ・アウトなら、許すこともできよう。追放なくして転落など在り得ないゆえなり。追放されない者の転落はみとめることはできぬ。
ところで、何故、お前は映画から追放されずにいるのか?

ユダ (かしこまり)私は、常に、原初において映画より追放されたる者と思っているのです。

キリスト 我は、風景からはとっくの昔に追放されているなり。ゆえに、風景の中への転落は不可能事。己れの中への転落しかかなうまい。……そして、その後に残るのは、エロスの海の中でアップアップするのみ。
もし、己れに生涯がありせば、生涯を原爆ほどのものにかえるべし。風景とは、人間がいて物があること。「アスファルトは、私のカンパンにすぎない」というように。

ユダ 社会より人質として有せるヴァギナの、その爆発も己れが立ち会わざる限り起こり得ないのだろうが、ヴァギナの爆発すら風景となるとは見えぬだろうか?

キリスト すべてはヘダタリなり。根だやしするのは未来なり。

ユダ エロスの海とは未来なのだろうか?

キリスト 物は人にみつめられると溶けるなり。しこうして、ほんのかすかな形骸のみが映画に残るなり。霧の中で物に出会うが如きが、映画なり。陽だまりを好む老役者の如きなり。人間を仲間に引き込むがごときに、愛はなし。余のエロスはなし。(テレビのCMソングが、「生ムギ生ゴメ生中華ッ!と叫びおる)

ユダ やはり、それも海なりや?……へだたりは海なりや?

キリスト 役者は空気を吸わず。我は空気を拒否せり。

ユダ それは、自己の内部と外部というような区切りをなくすというような……

キリスト (強く打消すように)我には、内部外部はないッ!

ユダ あなたは、それを役者といいきったのは何故なのですか?

キリスト どんなものよりも先に、私は在った。すべてのものは、後から私に押し寄せてきた。……そして、それがエロスの海となった。

ユダ その体験は、私にも感じられる。

キリスト あとは、それに打ち勝つキャピタルを作るのみ、ランボーは少年のエイハヴなり。さすれば、どんな小さなものも、マルクスよりレーニンより大きい。葉や芽をつけた文明の華々なり。
(キリストは、ユダの蒙昧ぶりにいらだち、レンガを握っては落とし、歩きまわる)

キリスト 原初より己れを持たされたる者に錯乱しすぎるということはない。すべてが、我が眼前で発狂せり。覚めているのは己れのみ……(とつぶやいているが、刺すようにユダをにらみ)物の最小単位までが鉄の箍(ルビ:たが)の中に埋められて爆発し始める。現在はその大洪水なり。カメラは水びたしなり。ただ……ただいかなる水位も、我よりは低きにあり。

ユダ (疑わしげに)すべて、物との対応関係は浮遊しているとでも?

キリスト 事実のあるがままなり。我は何とも対応せず。

ユダ 事実は浮遊せるや?

キリスト 命名する行為は、事物を磔にする!

ユダ (さらに卑屈に)恩を売るのか?

キリスト あらゆる設定を拒否して現われて来る言葉……それは、我が肉片なり。その肉片をあやつるのは私しかない……もし、私の身体が空気を吸って生きて来たのならば、その分はお返ししようと思っている。それが、私に残された仕事だと思う。教会でお世話になったものは教会へ、社会のものは社会へ、地球のものは地球へ、太陽のものは太陽へ……。

ユダ あなたは今までに、返したものがあったのだろうか?

キリスト (キッとなり)我がこうして語りおるのもそうだッ!

ユダ それは贖罪なりや?

キリスト 我が言葉は要請に答えるものではない。罪にも触れることはない。我が恥辱を成就するのみ。太陽にも地球にも、我が“私”であることなど言わせはしない。すべてのものに、我は“私”である一切を拒否させる!……それが、海を干上らせてゆく……!
(キリストは、酔いしれて神をみつめるのか、動かない)

ユダ (キリストを初めて盗み見し)それが今日の啓示か……大分心をあらわれるな、チクショウッ!

(くるりときびすを返して、歩道用ブロックをきしませながら逃げ去るユダ)

(キリストは、ユダが回廊を走り去ったのを聞きとどけ、ふところから出した頭大のメロンを四つに割る)


キリスト さあ、親愛なるユダよ、メロンを一緒に食べよう。この大洪水のただ中で……

ユダは、明らかに逆説の狂気が啓示する神自身の無神論を知り、回廊の端から、一人美しくメロン喰むキリストの姿を遠目にアコガレ、逆十字を切って、全く走り去る。キリストは、静かにグランドピアノの上に丸まり、自らフタを閉めて姿を消した。夕闇が迫り来るには、いまだ少しの間はあったのだけれども……


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