作品

『組織論』金と女と機関銃

『白夜討論』 寺山修司著(講談社 / 1970年10月8日)


芥正彦

劇団駒場 作、演出、主演によって「太平洋戦争なんて知らないよ」「僕のモナリザ」をへて「空間都市」「形態都市」を発表。二十三歳

灰野良希

天井桟敷 文芸演出部研究生。「イエス」舞台監督助手。二十歳

植村良己

天井桟敷 文芸演出部。モダンジャズ批評家。天井桟敷ラベルのレコード「書を捨てよ町へ出よう」の構成。二十三歳

橋本光史

天井桟敷より独立して演劇集団を準備中。地下小劇場にて「私の性的自叙伝」を演出。状況劇場との乱闘事件で逮捕。

川喜多清正

天井桟敷文芸演出部。反代々木系全学連ML派に属して活動していたが、現在は天井桟敷運営委員。二十四歳(日大中退)

豪晃

出版社編集部。二十五歳。(横浜国大卒)

竹永茂生

天井桟敷 文芸演出部。戸別訪問演劇「イエス」の作、演出を担当。二十一歳。(早大中退)


「思想の科学」に山岸会の女の人が「愛の定義」という論文を書いていて、そこには「所有欲を持たない」、「戦争をしない」、「怒らない」、「憎しみを持たない」、「嫉妬しない」、「同情しない」、「幸福感を持たない」といったことが並べられている。しかし、五、六万坪の土地を持って、村落社会の中でやっている直接民主主義を見ているとぼくはなぜだか虚しくなる。しかも、ぼくがどんなに虚しかろうと山岸会やキブツは消えない。それらは息長くつづいていて、反面コムーネ・アインスや、アーツ・ラブは解散する。前衛的なコミューンがなぜつぶされたかと言うと、結局は金と女と機関銃でつぶされるのだと思う。「金と女と機関銃」というギャング映画があったけれども、実際「金と女と機関銃」の三つが共同生活の幻想を内からゆさぶる事物の恐慌なのです。
 さて、このへんで───自由討論に入りましょう。

芥 金と女と機関銃というおもしろ味もあるかもわからないけれども、結局、ソリエストたちの敗北というやつでしょう。奴は五千人でやって、しかもつぶれた。二、三回やってとうとうあきらめちゃったわけです。そうなると誰でも共産主義と結びつくのだけれども、共産主義ができたときから、その福祉政策がラブになってきちゃって……あとはルンペンの宗教化、あるいは美学化に向かう。たとえばこの天井桟敷の地下室で十五人、二階の楽屋で十五人が年がら年中生活したらルンペンの巣窟になるわけだしさ。それだとたまらないから、なんとなく美学を持とうとする。それが宗教になったり「生長の家」になったりする。その辺、ドストエフスキーになっちゃうんじゃないか。ドストエフスキーにはゾーンという言葉がありますね。そうすると人間を錯乱させる鉈とか、なんとかというさっきの事物ですね。

寺山 ものの凶器性だ。

芥 コムの連中がやっていたのは街頭の演劇じゃなくて、街頭の演劇化だよね。自分が自分であり続ける───ことによって、街頭が演劇にかわっていってしまうみたいな、そこに居合わせた人間が急に役者になっちゃうみたいな、裸のやつが役者じゃなくて、サラリーマンのほうが役者になっちゃう。ちょうどパゾリーニが「テオレマ」でやっている、急になんともないところに錯乱が起こって風紀が乱れ、バタバタと崩れてのっかるようになったときに、そいつがいなくなっちゃう。そいつが居続けたら、そいつは私刑(ルビ:リンチ)をくらって殺されちゃうわけだ。

寺山 コムってのは、始終解体していることによって、成立している。

芥 いかにルンペン化しないでとなると、やはり各自が自分の中部屋を持って集まってくるという、一つの公会堂的な劇場制というものが必要になってくるのじゃないかと思うけどな。
劇団駒場もかなりコム的なことはあるわけよ、非常に。ただそんなのは単なる一つの遊びであって、テクニックとするものじゃないのじゃないか。それをテクニックとして使っちゃうと、風景にやられちゃうんじゃないか。風景を奪っても風景の中に演劇をつくることができなくなっちゃうというところなんだけどね、ぼくなんかの場合さ。それより一段か二段落ちたのだけが、とりあえず風景を演劇化しようみたいな、もともと演劇なんだからみたいな……そうするとこっちがルンペンになっちゃうわけよね。風景の中だと完全にどこにもいないわけだ。それこそ他人にも同情して、時には喧嘩もしなければ、みたいなことになるわけだけどさ。その辺をどう天井桟敷が克服していくのかで、七〇年代半ごろの演劇情勢は変わってくるのだと思うんですね。

寺山 ゾーンという規定はおもしろいところがある。集会場から帰っていくと夕陽の四畳半が待ってる場合、夕陽の四畳半のほうが個に立ち戻れば生存の二進法が成り立つわけだけれども、夕陽の四畳半のほうにも同じようにコムがある。それは一夫一妻制のコムで、そこに友だちが泊まりにきて形成するもう一つのルンペン空間になる。二人でもすぐコムになり友人が来てもコムになり、結局、永久解体するしかなく、マリファナなんか飲んで自分を二人にしたり、三人にしたりしてゆく増殖化の中で自分自身がルンペン化してゆく。そのミニチュアがアンダーグラウンドの演劇の中にもあるわけだ。

芥 いわゆるフィクションにおかまを掘られるわけですね。

寺山 フィクションにかまを掘られる奴がいかにも多いわけだよ。

芥 それがいわゆるルンペン化であって、それらを救済するには共産主義しかないわけだ、社会主義だと強制労働というのがくるけどさ。キブツというのはある意味で先史時代だと思うわけだよ。未来というのも先史時代で、いわゆる歴史化されていない。歴史化されてない、それ以外のものは全部先史時代であるわけだし……

寺山 共産主義が一番健全に成功するのは土地があるときだ。少なくとも農業国では、共産主義は成功してきた実例が多い。しかし、近代化の過程で工業化していくとさまざまの矛盾が出てくる。あなたがいうような意味で事物が重みを持ち、意味の血縁関係をもちはじめてきたときに共産主義というのは非常に難しくなってくる。

芥 と思いますね。だから事物がふえればふえるほど、共産主義は現われにくくなってくる。いわゆる事物が共産主義を人間から奪ってしまうみたいな、そういうのはたしかにあると思う。そういう事物に直面したとき、事物のほうがファシズムとして人間に迫ってくるというのがあるでしょう。テレビだってそうだし、だからルンペン的な精神の奴ほどカラーテレビが好きだしさ。ある意味ではものが直接、人間の生命を養うというものだと、土地しかないということになると思う。共産主義が一番成功するのは土地だというけれども、人間を拒否しないし、人間のからだも土地の一部だし、農耕はものすごい近親相姦だから不当行為とかなんとかはいらないわけだからね。

寺山 その通りだね。

芥 はたしてわれわれにとって、土地とは何かという問題があるわけでしょう。ル・クレジオが「愛する大地」を書こうとするのだけれど、どうも「大地」がかき消えてしまって、土くれという概念だけが残る……ぼくなんか特に土の破片と呼んじゃうわけだし、建築物を見てもピラミッドの破片だと思う。そこへなんとか土地を持って来ようというのが、フィクションにおいて劇場理論にしているわけよ。それと実際、なま身の人間がどうぶっつかり合うのかというのが全くノー・テクニックだよ。そのノー・テクニックを状況劇場とか天井桟敷なんかは意外とコツコツやっているんでさ。

寺山 一つの瓦礫が土に見えるか、灰に見えるかというのは、思想の問題なんだな。共産主義はそれを土地と見てきたんだけれども、しかし大地とは見えないものがあるわけだよね。おれはやはり土は土と見たいというところはあるけれども、しかし土じゃなくて灰に見える。その灰は土地以前の旧約聖書の世界だ。言葉の前に存在していたのは、実は灰だったのだ。

芥 それはおそらく散文家になっていくんじゃないですか。その、煙とも溶岩ともつかないものに形を与える作業がなにしろ行為だから。

寺山 形態だな。

芥 世界というのは形態ですから、形態としてない限り世界じゃないので、無なので、形を失ったら虚無主義になってなにもできなくなるので、やはり精神のルンペン化である。精神のルンペン化をどうやって克服するのかというのが、ぼくは興味があるのですけどね。

寺山 ルンペンというのは、形態としてとらえがたいからルンペンなんだという意味ではね。シュペングラーの思想にはルンペンなどというものは存在しないのだ。歴史はすべからく形態化してゆく。

芥 それが言語だと思うのですよ。たとえばベケットの芝居を民芸がやると、ベケットが持っていた言語のイマージュ化しかできないでしょう。

寺山 言葉乞食というふうな意味ではな。

芥 言語そのものをもってこなければならないのだから、言語のイマージュ化は避けるべきで、ルンペンそのものをもってくるときに、自分がルンペンになっていたらしょうがないということになる。たとえば五千人が集まって、五千人を単位として、靴屋は靴屋をやって、百姓は百姓をやって、もの書きはものを書いて、その人は大きな都市でもなければ村落共同体でもなければ、国家でもない、なにしろ集団をつくろうとした。ドストエフスキーも、若いころそこへ突っ込んでいたわけよね。ニコライ二世が、奴らはくだらないことを考えているから、少し死の恐怖を教えてやれというので、手入れをして、全部しょっ引いてシベリアに送って、奴らに死刑をわざと宣告させておけというので、お前ら死刑になるといって、ギロチンの前に引っぱる。ギロチンの前に立たせたところで、お前らを釈放するという通知を出す。結局、ニコライ二世の遊びの中にすっかり巻き込まれたわけでやっぱりぼくは皇帝のほうがいいなと思うわけですよ。

寺山 それはそうだよ。つまりニコライ二世にとってフィクションだったものが、遊ばれたほうにとっては現実だったということだもの。しかし一つの事物が、事物として共有できるのはどういう場合だろうね。

芥 事物は共有も私有も、なにもかも拒否しているというのがあるでしょう。だからこそ事物であって形態である。

寺山 形態であることによって、認識されてしまうのです。

芥 コムの中で個性が敵となったというのがあるでしょう、個人が個人であってはならない。じゃ、なんであればいいのか……いなきゃいいわけで、いてもいてはいけないみたいな、セシル・テイラーやコルトレーンだったらできるけどさ。非在、非在であることによってあらゆる自在さを勝ちうる、自在さと自在さがルンペン化を妨げるし、衝突化を妨げる。エネルギーと混乱に形態を与える、速度だけが肉体として身につく。これはサーカスみたいな作業だから、かなりの訓練がないとだめだみたいな……、その訓練というのは組織論的な訓練だけどさ。これは人間が歴史をつくったときから、その訓練の記録がある意味では歴史だと思う。一応、訓練されて、これでいいのかなと思ってやり出すと、急に混乱がきて、オシャカになっちゃったり、レーニンなんか成功したなと思うと、とんでもないことになっちゃったりさ。いわゆる社会主義というものだけれど……。そうすると、人間のやっていることは、あくまでアンダー・ザ・コンストラクションじゃないかということで、とりあえずアンダー・ザ・コンストラクションから始めよう。それが革命になるのか、文学になるのか、演劇になるのか、政治になるのか、それが歴史そのものかは皆目見当がつかないのだけれど、とにかくその種の混乱が起こっている。混乱に負けた奴はルンペン化しちゃうし、幻想の中に逃げ帰っちゃうし、政治による自己権力奪回にかけつけちゃったりみたいになるわけでしょう。これは全くぼくの個人的な私生活の話なんだけれど……

寺山 世界史は形態史学だという考えで育ったからね。といつのまにか数学が好きになる。ガロアは決闘するときはじめて風景から脱け出せる。

芥 ガウスだと思うんだけどな、虚数をつくったやつ。たとえばガウスが出る前までの二元論というのは社会と個人という二元論だったわけじゃない。ガウス以後、虚構と現実という二元論になり、さらに超函数が出てきてから、形態と幻想みたいな……だから超函数というのは点のみしか存在できなくて、点がないというところはゼロで、点が無限大であって、それを積分すると平面そのものがかき消えちゃうという、無数の平面が交差してでき上がっている平面なんだよね。だから点しか存在できないわけで、三つの平面が交差する場合、その共有地点は一個きりないわけでしょう。二つだと直線だけどさ。いままでは平面の交差はせいぜい二つだった、それが複数の平面交差を許すみたいなことになる。そうすると点だけがパラパラと散らばるわけで、同一平面上にいないので、一個の点が無限大を秘めるわけで、一つの平面をもってくればいいわけだから、積分したときに困るわけです。そのときこういう実際のものの形が出てくるので、数学がはじめて形態に近づく一歩なんだけれど積分できない。積分したときに平面が消えちゃうというのはぼくの仮説なわけ。そこまではまだ日本の数学者はやっていないので、日本の数学者が少し函数化したのだけれど、函数の問題ですね。集合論を積分していくわけだけれど、形態が出てこない。

寺山 つまり存在に対応して不在という言葉じゃなくて、非在という言葉が出てきた。しかし非在に対応する言葉が存在ではない……

芥 形態でしょう。

寺山 そうだよ、形態なんだ。

芥 形態を維持できないとルンペン化しちゃう、肉体も精神も生活も政治も……。政治がルンペン化すると、そのあとに出てくるのがファシズムでしょう。とりあえず形態を持とうとする、とすると幻想と記憶による形態だから、内部に病気を抱えこんでいるから、その病気を直さなければならないので、病気じゃない人間をぶっ殺してしまう。自己の内的な病気を絶ち切るために、ユダヤ人を何万人も殺す……。「金と女と機関銃」、それは形態の構造だよな。

寺山 ほかに共同生活ということについてなにかしゃべる奴はいないか。

灰野 家族もまた共同体だということは忘れやすいことだと思うんですけれどね。子供が生まれたときに、それは扶養されなければ生きていけないと思う、その子供は三ヵ月になると意識を持つようになって意識しないままに共同生活に加わってくる。すでに気づいたときには意識を持っているために、もう一ぺん自分で共同体を始めていこうとしても、すでに共同生活を経験してるためにできない。共同生活を理想的な形でやるとしたら、生まれた瞬間に大人になって、それから徐々に子供になっていく。だからこそ生まれたときに意識を持っていなければいかん。

寺山 政治の言語じゃなくなっちゃうが、ラブレーの「ガルガンチュア物語」では生まれてから仕組まれたものなど一つもない。男はすべからく英雄として金と女と機関銃をつれておふくろのあそこから出てこなければいけない。生まれることは意志なのだ。「おれは生まれたくなかったけれど、親が生んでしまった」という論理は全く成り立たない。

芥 逆に、それもまたガルガンチュアだと思うな。ガキというのは機関銃を持っているよ、ぎゃあっと泣き出してまわりにいた人間の作業を全くなし崩しにしてしまう。おれにはガキがいて、現にガキがそばにいてものを書いているわけだけどさ。ふとおれも逆にこいつを殺そうとする、純粋に。完全なおとなよ、おれが殺そうと思うわけだからさ。ある意味で奴は意識そのものだから、持とうとするような意識を持つ必要はない。フィクションそのものの形態だからさ。奴らにあるのは発狂と沈黙、二つきりないわけでしょう。発狂したときに機関銃を撃つわけだし、沈黙のときはものすごく舞踏をしている、習慣がないから舞踏になると思うのだけれど……

寺山 子供はやはり子供なりの共同生活に対する自分の方法を持っている。ただ認識だけが方法だと思ってきた近代主義じゃ子供の方法はとらえられてない。むろん共同生活もとらえられない。

芥 子供なんてのは記号はないものね、やっぱり名づけられるものよ、ベケットじゃないけどさ。マロウンがだんだん死んでいくというのは、子供になって遂には記憶のない時代、意識そのものが肉体になって、乳飲み児になっちゃうんじゃないかみたいにな……おそらく子供を扶養したいと思って子供を扶養している人間なんていないと思う。親なんて、いつこいつを捨てようかと思っている。こんな野郎、放り投げようと思うわけだけれども、放り投げても絶対、親が屯(ルビ:たむろ)しているところへ帰っちゃう。親がたむろしている喫茶店へ戻ってきてしまう。マンションならマンション、どこならどこどことね。親が捨てた気になってもパッといるわけだ。そういうあれからくる共同生活の形態というものが出てくるのではなかろうか。ぼくの場合、どうも大前提になって悪いのだけれど……

植村 さっき農業国に共産主義が生まれやすいといったのがなぜか、よくわからないのですが、多勢に無勢で、いわばピラミッドの頭が鋭角であり、底辺がでかいから共産主義が起こりやすいということですか?

寺山 おれはやはり、人間が畑を耕すぐらいの労働で、ちょうど自給自足できてしまって叙事詩的精神を失ったことへの不満が大きいと思うね。

芥 目的なき行為で生命を保証してくれる唯一の事物ということじゃないかと思うな。だから農耕は一番怠け者がやる作業ですよ。

植村 ぼくはキブツとか山岸会でなければいわばコムはできないのじゃないかみたいな感じがするな。

芥 人類という大きなコムがあるでしょう。会社でもいいけれど……

植村 たとえばロンドン・デノミとか、ベルリン・デノミとかがある。そうするとさっきいった一千万円の融資を受けるのもまた同じ貨幣なわけだ。

芥 共産主義というのは国家の金でやるんだものな。国家から福祉資金というのがおりてきて……

寺山 キブツで何がつまらないかというと、退屈だということです。倦怠じゃないんだな。あそこでは想像力も労働のうちだという認識がないから労働観が単純なんだ。

芥 だから文学が必要なんでしょう、退屈を殺す───。

寺山 それでもキブツからは大した作家は出ていないな、農村からも出てないが。

植村 要するにキブツでなければコムはできないと思うのですよ。

芥 キブツをつかわないで、いかにコムをつくるかで形態論が必要だということじゃないのかな。

植村 でもそれはできないと思っている。

寺山 人類の未来というのをどこまで物尺しのばすか、なんだな。一瞬にして消える幻想が永遠に続く───二百万年の共同体というふうに考えるかだ。

芥 でも土地なんかなくったって、農耕をやらなくったて大丈夫よ、キブツで原爆一個を持っていればいいんだよ。

植村 SFだな。

芥 SFじゃなくて、現にそうだ。屠殺力を失ったときにその組織がつぶれる。

植村 原爆を持ったら国家ですよ。

寺山 コムというのはすべて国家だよ。山岸会はニワトリを殺すという楽しみでつながった国家だ。キブツはアラブ人を殺すという楽しみでつながった国家だ。

芥 屠殺力を失ったらだめだ、全く一方的に殺せないと……

植村 いわばロンドンにビルディングが建って、そこで生活しているという状態は全然コムでもなんでもない。

寺山 おれはコムだと思うな。

芥 ビルディングのコムじゃないの、事物のコム……

寺山 食卓のまわりにだってコムはできる。

植村 でもどうやって生活するかというと、外に買いに行く。外に食物を求めるわけでしょう。

寺山 外と内の規定をはっきりさせよう。無人島でなければコムができないという論理は成り立たないよ。

植村 屋上に菜園かなにかがあって、そこでなにかがとれるのであれば……

芥 それはガルガンチュアのいうことよ。

植村 「もの」を買う。それはいわば共同生活の根底を占める流通ということですが、そのときにドイツならマルクだけれども、マルクを使わなければいけないということ自体すでにコムじゃないと思うんです。

芥 ドイツでもどこでも金でしょう。

寺山 植村のいっていることもわかるけれどさ、しかし、ユートピアは全部無人島でなければいけないというか、限られていなければいけないという発想から出ている意味じゃ、やっぱりだめだと思う。つまり、言葉がなくても成り立つようなユートピアなんて信じられるものではない。

植村 コムというのは「絶対自由」とよく似ていると思う。絶対的な自治体といってもよい。いわば自立した自治体、全体的な自治体というのも定義をきちんとしなければいけないと思う。

芥 たとえばアンドロメダとか太陽系とかという一つのコム?

植村 それは「絶対」だな。しかし、コムは相対的なもんだ。

芥 それが一つの形態化されたコムと呼んでいるわけよ。

植村 そうすると地球が一つのコムだというのが非常によくわかるんですね。

芥 コムじゃなくて、コムの中の一つの形態としての一事物。

灰野 海でもいいんじゃないですか。

芥 海というのはないでしょう。砂漠はあるけれど、ただし水のある砂漠。海は本質じゃない、部分だから。部分は本質になり得ない。

植村 そうするとビルディングという部分もやはり本質ではないという論理か?

芥 いつもコムというのが部分、風景の中で部分であるから、風景にやられてしまうわけでしょう。

植村 そうすると山岸会がなぜ自立しているかが問題だな。

寺山 自立なんてありうるだろうか。それは幻想にすぎない。山岸会だって自立しているのではなくて、ただ持続しているだけなのだ。

植村 自立できる可能性を秘めているということですよ。たとえばそこから一歩も出ないでも生活ができるということですよ。

寺山 自立と自閉は違うよ、植村。きみは山岸会からマリリン・モンローが出ると思うかい?酒も女も機関銃もないっていう感じじゃないか。

芥 むしろそれらを放棄することによって記憶と幻想の支給再生産だものね、単純再生産でもなければ……

植村 いわばそこへ機関銃と女と金を持ち込む作業をぼくたちはどうするかということでしょう。

芥 ただその機関銃の構造が原爆の構造であり、女の構造が経済の構造であり、酒の構造が文学の構造になったとき、それらの形態がフィクションそのものとなって、風景をフィクションの一例として存在させることが可能であろうということはある。……

植村 しかしマクロ的な目で見たら、そこが主役であって、まわりが風景であるという見方もできる。

芥 風景を変える能力が一切彼らにはないということ、彼らは形態は持っていない、幻想と記憶のみの肉体によるエロス的な再生産のみ。

植村 でもそれが絶対的なとまではいかなくても自治体なんだよ。

芥 自治体ではあるかもしれないけれども自立体ではないわけだ。

植村 いや自立体です。

芥 自動律をみずからの言葉とすることはできない。むしろ自動律の内部にはいることによって、小さなシジフォスを営んでいる。

植村 それでもいいじゃないですか。

芥 いい悪いとはいっていないですよ。

寺山 しからばどうして植村は山岸会に行かないでここにいるかという非常に素朴な問題が出てくる。言行一致が必ずしも必要だとは言わないが、きみはまだ一羽もニワトリを殺していないだろう。

植村 知らないけれど、つまらないと思うんですよ。

芥 眼前の風景をみずからの意識の方向へ移行することが表現だからさ。少なくとも革命だろうから……

植村 それができれば非常におもしろいと思うんですよね。

芥 できればとかできないとかじゃないと思う。できないのじゃないかというのは可能性に対する危倶のあらわれだからさ。

植村 それはどうしてできないのですか?

寺山 山岸会は自立体じゃないからだ。

植村 自立しているからできないのじゃないかみたいな感じもあるでしょう。

寺山 もっとプリミティブに言えば、自立という観念は幻想にすぎないのじゃないかという話をしたことがある。

橋本 ぼくは学生時代に三年間、プレハブを借り切って共同生活をしたことがある。それは一つの宗教団体の構造をもったものです。ぼくたちには昼はなくて、朝と夜だけなんだということにしていたわけです。ぼくの場合はグループの全員にセックスの抑圧を与え、恋愛感情までも共有するということで個人的な関係を否定した。抑圧の信仰みたいなものを完全に宗教化しちゃえば、簡単に共同体という形ができるわけですよ。

寺山 宗教というもののもっとも興味深い部分は神様なんだな。たとえばきみが教祖になって女全部と寝る。寝られる女の歴史というのが共同体論になってくる。

橋本 ぼくの場合、ぼくは教祖にはなったけど全く一人の女ともやらなかったわけですよ。しかし全員とやる以上のものを与えてはいたわけです。

寺山 それは何?

橋本 やる以上のものというのは、たとえばその女たちに対してのぼく自身のタブーを設けるということでの満足感です。

芥 父としての思想じゃなくて、子としての思想というやつね。

橋本 そうそう。制圧が自分たちの幻想の産物であるということを信じ込ませておけば、それは持続するわけですよ。

芥 まわりのものを聖霊という言葉にかえようという作業ですね。それはわかるけれども、それはキリストが地上においてやったことだからな。

寺山 五人女を集めてきたら、五人女を集めてくるんじゃなくて、五人の母親を作るというふうなことだな。あなたは要するにその一人一人の子供となるわけだ。

橋本 逆ですよ、父になるわけですよ。たとえばぼくは、そこでは絶対に神聖化されている。共同体の外では他の女と寝ても、彼女らはぼくは本質的に禁欲的な男だと信じ込んでいるわけです。

寺山 それは単純なプラトニックの一夫多妻にすぎなくて、つまらないことだよ。甘ったれているだけだ。しかしそこでの財政の問題はどうなってるのか?
植村がいっているのはある意味では構造主義的な考え方に突き刺さっているわけなんだ。しかしきみのいい方は「料理の三角形」どころか、ただの平面にすぎない。

橋本 金は、彼らは学生だから仕送りを受けていても、働いていても、持っているものをすべて出しますよね。金のないものは全然出さないし、あるものは全部出す、それをぼくがちゃんと保っているわけですよ。

寺山 つまりただの寮の舎監じゃないのか。植村はこういうのはコムでもなんでもないというわけだろう。

植村 ゾーンでしょう。

芥 おれがいったゾーンというのはそれとも意味が違う。

橋本 しかし、十名なら十名の幻想体でもってまわりの風景と対決することはできるわけですよ。

寺山 風景の側から見れば、そっちは風景だな。そういう形で完結している限りはさ。

芥 個人的な復讐だよな。

橋本 それでもそいう共同体というのは存続させることはできるんですよ。

川喜多 宗教の力を借りればできるわけですよ。しかし宗教共同体の中では抑圧は不断にくり返される。われわれは抑圧のない共同体はなにかというところで、先ほどコミュニズムの問題を出したわけだけれども、コミュニズムというのは土地を「場」とした農村でしか成立ちにくい。そこのところが非常に興味があるので、もう少しきいてみたいと思う。

芥 ぼくは必ずしも田んぼとか畑をいったのではなくて、溶鉱炉なんかも土地としていったわけですけれども、すでに大地というのはない。大地が鉄に変貌したり、ビルディングになったり、コンクリートになったりしているわけで、それをどうやって耕すんかい、あんたたち、というわけだ。共産主義をつくるのならね。だからこそコンクリートがめくれあがって血が吹き出し、空から鉄が落っこちてくるような空間、混乱をつくって、それらを形態として静止させない限り、大地はあらわれないだろう。それがおそらく輝く大地だろうから。すでに自然としての大地はないので、われわれの生命を奪う、だからわれわれはその生命をとりあえずそいつに預けて、そいつから生命の供給を受けるみたいな……。グランド・キャニオンなんかはいま後楽園じゃない。ぼくが第五砂漠といったのは、わざわざナンバーを打ったわけですよ。砂漠がどういう形態をとってきたか、ちゃんと数えたんですが、やっぱり五つ目なので、ぼくのつくっている歴史だといまは五世紀なんですよ。やっと古代から中世にはいろうとしているときで、現にそうでしょう。宗教はいまだはびこっているし、政治は専制的だし……

橋本 しかし、宗教じゃないですか、あなたが言っていることも。

芥 それは人間の内部に一つの俗性としての宗教性があるわけですよ。国家とはなにかといったら、あらゆる俗性を集め得たものが国家なんだけれどもね。それは別として、あらゆる俗性を集め得た人間がいたとしたらそれは国家ほどの抑圧感を持つだろうというわけだよ。あらゆるそういう抑圧感をみずからのテクニックとしたものが、ぼくにとっては役者なんだよ。それは見る側のもので、ぼくがいくら話そうと、彼みたいなバカな奴が聞くと、宗教としてしか受けとめ得ない。はっきりわざと、俗性に自分がやられている人間をぼくはバカといいますから、もちろん彼だってバカじゃないときもあるわけで、おれのほうがよっぽどバカなときもある。だから俗性にやられないということがまずパワーの原因で耕す力になる。シュミラルゼーション(編注:ママ)、どこから明かりをみち開いてくるか……もう実際の土くれからは開いてこない。土着コミュニズムというか、農耕コミュニズムというのは、単なる宗教としての美学でしかないのではないか。そこで錯乱が起こった場合、文学にならないで発狂になっちゃう。巫女になっちゃう。ジャズは起こらない。山岸会から起こるのはある処女の発狂だけであって、荒くれ男の錯乱などは起こらない。しかもその錯乱が形態化されて音によってジャズになる。退屈さを目の前にしたとき、われわれは錯乱する以外に手はないわけで、発狂なんかはほんの小さな錯乱でしょう。そうすると一番大きな錯乱はなにか、錯乱というのは当然屠殺力を持つわけで、沈黙だってぶっ殺す。退屈さをぶっ殺す。われわれが刑務所も恐怖するのは、刑務所というものが持っている退屈さでしょう。これが死ぬほど退屈なのだからさ。錯乱しようとしてもよっぽどパワーがない限り、あんなところで錯乱し続けているわけにいかない。ある意味じゃ、おれにとっていうと刑務所にはいらなくても退屈なんだ。風景という刑務所の中にいるわけで、どうしてここから脱走するか、みんなで脱走しようという手もあるわけだけれども、その辺のみんなというのがちょっと甘いなと思うわけだよ。脱走しようとする連中は必然的に一つの大きな仲間になるわけで、他人がいなければ脱走できない人間は頭のいい奴は脱走に加えないでしょう。

寺山 好むと好まないとにかかわらず、人類の歴史というのは逃散の宿命を背負っているというところはあるな。

芥 家出のすすめがいかにして……

寺山 最早、家出じゃなくて逃散なんだ。つまり、集団の家出としての逃散として。

芥 逃散というのは百姓のやることだから……

寺山 しかし百姓じゃない日本人なんていないんだよ。

芥 どこまで逃げ切れるか……

寺山 速度の問題だ。

芥 認識する次元をかえればいいわけでしょう、鉄を耕す場合は百姓とはいえないんだから。

寺山 言葉ばかり耕していても詩人にはなれないというところだ。

芥 そういうことだな。

橋本 「家」を新たな居住地にしていったって地平線が見えないわけですね。芥さんがいう錯乱みたいなものは、酋長ジェロニモがある瞬間に飛びこんでくると、アメリカ大陸に新しい地平がひらけるということでしょう。とびこんでくるというのはわかるが、家出をするというのは居住地に耐えがたさを感じて出てゆくというわけでしょう。

芥 居住地を拡げるというよりも、むしろ相手の居住地をいかにして焼き払っちゃうかじゃないですか。カスター将軍の居住地をどうして相手方がつきとめるか。……ジェロニモよりもカスター将軍のほうが錯乱していたわけでしょう。あいつはたのまれもしないのに急にぶっ殺しちゃったりして、全く自己の名声を上げようとするだけでさ。

寺山 いろいろな境界線がある、国境でも地平でもなんでもいいが、それを消さなければいけないというときに、どうやって消すか、いちいち消しゴムで歴史を消していられないから、暗くして境界線をあいまいにしようとした歴史、暗黒が一番いいと思った時代があるわけだろう。ところが暗黒の中では境界線も見えないが自分自身も見えないというところがあって、存在に対応するものは非在じゃなくて、単に不在だというふうな感じになってしまった。境界線はないけれども空家ばかりで、浅薄なユートピア論にしか生まれないというところがあった。それじゃ思い切り明るくすれば境界線が全部見えなくなるかというと、そうでもない。原爆を落としても境界線というのはやはり在る。原爆というのはものすごく明るいけれども、しかし境界線は消えない。そうすると明るくても暗くてもだめだということで、思想が要請される。

芥 何と何との境界線ですか。

寺山 おれとあなたでも、おれと彼とでも、国家と国家でもいいし、家と家でもいいわけです。

芥 それは線としてあるわけですか。

寺山 線として在ったのが歴史だ。

芥 それはさっきの超函数の次元でこわれるわけですよ、線はないんですよ。

寺山 線はないという思い込みじゃなくてね。

芥 むしろ地平がぐるりと私を囲んでいるというところから始まる。

寺山 カタツムリみたいに線を引きながら歩いているので、その線を消していくのを私自身の仕事みたいなものと考えていたらきりがない。

芥 だから次々に記憶をたち切れない人間はなにもできやしないというわけでしょう。

寺山 それは速度だよ。

芥 自分がどう歩いてきたかなんて、そんなのを思い起こそうとしても、思い起こすことは不可能だというのは、プルーストが五千枚をかけてやっているんだよ。

寺山 自分はどこからきたかということばかり書いている奴もいっぱいいるわけじゃないか、ランボーみたいに。

芥 それはやったってけっこうだけどさ、暇なんだから。ただそれが他律性をどこまで保証しうるか、おれがいっている自律性というのは他律性を保証させる目的がある。指一本さわらないでそいつをそこへ存在させちゃうみたいな、あるいは指揮者が楽器に指一本触れずに全く違う音をもってきちゃうでしょう。

寺山 その自律の律というのは、要するに律するほうだな。

芥 自動律の律だよ。そこでちょっと考えるのは、さっきインディアンの話をしていたので、インディアンでやると、たとえばアメリカ・バイソンという野牛の群れが一つのコムをつくっているわけでしょう、コムの本質は動物性にあるわけでしょう。

寺山 バイソンにも悟性があると思いこめば、それはコムにもなれる。言葉にしてしまえば何でもコムになれる。

芥 精神も肉体もルンペンなんだよ。ルンペンというのは動物なわけよ。他に対して同情もしなければ、なにもかもしない、時間もなければそこには空間もない。

寺山 野牛の群れがコムかどうかということは野牛が決めるのであってバッファロー・ビルが決めるのじゃあない。野牛の組織論をわれわれが議論するのは動物学者になることだ。

橋本 野牛じゃなく、限界的にいえば、たとえばジェロニモが、アメリカの歴史を作る。居住地としてここまでしか住んではいけない、インディアンはここしか住んではいけない、と区分する。同じように生まれてきたときに、ぼくたちはすでに線を引かれているわけですね。家庭があったり、学校があったり、現実にすでに境界線を引かれていた。

芥 あなたが社会秩序におかま掘られているのじゃないかな。

橋本 じゃないと思うよ。

芥 白人たちから見ればインディアンも野牛も同じにしか見えなかったわけでしょう、だから同じようにぶっ殺した。そういう屠殺力が好きなんだ、おれは。理由なく殺す、だってわれわれはマンモスという平和なコムに対して屠殺をもつことによって、はじめて先史時代に突っ込んできたわけだ。

植村 それじゃ、まるでファシズムじゃないかな。

芥 いや、ファシズムじゃない、それを政治でやるとファシズムになるだけだ。だからおれがいったろう、もし文学があるとしたら、ファシズムなんてとんでもないほどのファシズムとしてしかあり得ないってさ。人類というバカでかい屠殺会社の屠殺力をいかように使うか、それを個人として使い、しかも政治の中でそれをやると、ささやかなファシズムとしてヒットラーになったりする。

寺山 屠殺を肉体労働でやろうとすると、一生かかっても大したことはできないということになる。

芥 沖仲仕ぐらいだよ。そこでジャズメンなんかはある意味では屠殺力だからね。幻想と記憶を屠殺するわけだよ。ニグロがおのれの幻想と記憶を殺すことができたら、奴隷からはじめて解放されるわけでしょう。その辺の意味合だけどね。あいつは文学だといっているわけだけれども、ものすごい屠殺力があるから。たとえば国家論の非常にビスマルク的な事実として、まず大衆には生活向上の可能性と平和をとりあえず与えて、大衆の風俗に対して国家が手を出すことをやめようとすれば、大衆の屠殺力を一気に奪い去ることができるわけよ。その奪った屠殺力をどこへしまっておこうか、鉄の中にしまっておこうということでしょう。どうやってそれを好きなときに爆発できるようにしようかというので、科学と技術といろいろなことで国家ができあがる。あらゆる俗性を解き去るのが力だから。

寺山 いまは屠殺のカンパニーとしては国家が一番有効だと思われているのだけれども、それに対応する形で、たとえば吉本隆明みたいなやり方では国家と対決する屠殺力は持てないよ。

芥 国家は歴史の上に穴をあけることはできない。歴史に穴をあけるのが可能なのは文学というか、ある意味でフィクションのみでしょう、国家はどんなに屠殺を働いたって歴史をつくることしかできないわけよ、あんなささやかな記録文学しかさ。歴史という一つの幻想物語に全く真空をつくる。歴史に穴をあける作業は誰がやるのか……

寺山 それが虚構の力だということをいえば言葉でやるしかないということだろうな。

芥 フィクションの上に歴史がまるでコムのように営まれているのだからさ。

寺山 歴史の一切が虚構だというふうに思い込んで言語を組み立てていくということだな。それが「時」の重さと釣合うのだ。

川喜多 歴史に穴をあけるというけれども、それを具体的にどういうふうに実現するかというふうになれば全くないわけでしょう。

寺山 ただ国家の軌跡は何処へ向かっても歴史でしかないというところがあるわけだよ。

芥 たとえばキリストを考えてごらんよ。あんなのは政治的にいったらさ、単なる一人の気違いがいただけじゃないか。そこから宗教が生まれた、政治の言葉をつかったらわずか二、三行で済んじゃう。歴史の言葉をつかうと、いかにそれがどんな影響を及ぼしたかになるわけだよ。キリストは全く穴をあけちゃっているわけじゃないか、キリストのあけた穴から、その向こう側にくぐって出なきゃキリストを殺すことはできない。そのときにフィクションというものすごいまぶしさを見るわけで、大島渚の絞首刑の少年が帰ってきて、こわくて死刑になっちゃう。こんなまぶしい中におれはいられないといってさ、燃え尽きちゃうからね。

植村 いまだに無人島があって、そこに一族が住んでいるとしたら、キリストのことは知らないね。そうすると、それは完全に手袋を裏返したという感じだね。

芥 あなたがそういうことをいっているのは、キリストを十字架に磔た人たちの役割をいま果たしているわけでしょう。

植村 全然違うね。

芥 目あきには目あきの音楽があるので、小児麻痺は小児麻痺の書いた文章を読んでいりゃいいんだよ。

植村 そうなると手袋を裏返すというフィクションがなぜ出てくる?

芥 それはフィクションじゃない、レトリックだよ。

植村 レトリックでもいいけれども、要するに現実にそうなっているという状態がある。

芥 現実なんて一つの幻想の形だろう。もしフィクションというのを前提に話したらだよ。

植村 だから、仮に無人島のキリストを論じる……

芥 フィクションには仮にも本当にもないわけだよ。

寺山 植村の言うのはよくわからないが、キリストを知らなくても無人島での生活ができるということが信仰なのだよ。

植村 もし知らなかったら、キリストなんかいないのじゃないかと言われる。

芥 たとえばここを例にとって話しますと、ここは一つのカタコンベで、あの人がキリストの十二人の弟子のうちの一人の役割をやっているわけですよ。あの人はペテロかもしれないけれども、フィクションというのはそういうことですよ。いつ現れるからないわけでしょう。それを形態化していかないと、われわれはいま生きていないということですよ。盲目の台詞は盲目に向けていえばいいので、目あきに向けていってもらっちゃ困る。そういうあれはともかくとして、そういう話し方もあるというわけですね。ただ手袋を裏返すフィクションとかいう意味合いで、ぼくのフィクションという言葉をとってもらってもなんにもわからないだろう。話すということだって、一つの文明の全く無目的な営みだし、耕す作業なのだ。

植村 それがもし無限大に大きくなるのだったら、手袋で全宇宙を包むことができるということでしょう。

芥 そういうユートピア思想は……

植村 無人島にいま一つのコムがあって、それがキリストもなにも知らないとして、なにも作用されなかったとしたらどうする?

寺山 知らないうちに、誰かがキリストになっちゃうんじゃないかな。

芥 そうだよ。コップの中からだってキリストは出てくるしさ。

植村 それならば、今、ぼくたちが云々しているキリストは歴史にはあらわれてこないうことですよ。

芥 だってキリストには歴史なんかないもの。記録もないし……

植村 それが自立ということだろうと思うのですよ。

芥 自立というのはもう行なわれているわけだよ、アンドロメダとか、太陽系とかある。

寺山 きみの言うジリツというのは自分で立つというほうの自立の意味?

植村 そうです。

芥 学生革命運動的な自立ですか。

寺山 自律神経の自律じゃなくて、自分で立つほうだね。

芥 じゃキンタマぶっ立ちのほうだな。それは記憶が回復してきて金玉がぶっ立つので、あなた、本当に幻想もなにもないところでキンタマがぶっ立つかどうか疑問だな。

寺山 それじゃやはりブルジョアになったほうがいいんだよ、植村。財産はあったほうがいいんだよ、キリストはやっぱりいたほうがいい、幻想も財産のうちなんだよ。手袋もあったほうがいいけれども、手袋とキリストと言うと、キリストの方がやっぱり値段が高いんじゃないかという感じがする。

植村 いわばロンドンの真ん中に突きささっているビルと山岸会とどっちが有効かみたいなことを考えるんですよ。

寺山 なんのために有効かということだな。生活している奴にとって、どっちが充足感があるかというふうな意味を論じたい。

植村 そういうことを言っているわけです。

芥 それとあなたの関係はどうなるの?生活を支えていく上でどっちが有効なのかを調べるのか、全くそんなのはおかまいなしに大学教授的なインテリゲンチャ的に観察するのか。

寺山 そういうのは感想だけじゃだめだよ。

豪 感想でしゃべったら、まるっきり問題にならないと思うな。

芥 いかようにも言えるよ、見あきた夢だもの。

川喜多 さっき芥が虚構と言ったけれども、虚構の中からどうやってぼくらは逃げ出すか、虚構の中に仕組まれている風景を焼き払うかということも問題だな。

芥 ぼくは虚構じゃなく、フィクションといったんだけれどね。虚構といったら政治とか経済のシステムでしょう。いわゆるシステム工学というのが虚構よね、そこに形態を与えないと、フィクションに対してなんらなす術がないというわけです。政治は単なるシステムの技術だし、経済は単なる物質の移動だし、いかに物質の移動をシステム化するかでしょう。テレビという物質をフィクションからもってきて、科学技術を金で買って、それをまた家庭にばらまくわけでしょう。それで工場という大地からテレビを売り出すわけだから、これも農耕だと思うわけです。そういう企業としての大地というのはなかなか共産化されない。なぜかというとパワーの差が出てくる。大地を耕すのにはあまりパワーの差は目立たない。ところが全く無味乾燥な事物を相手にした場合、パワーの差が徹底して出てくるわけでしょう。

寺山 農業というのは徒歩競走なんだよ。十一秒が十秒六に縮まるというふうな縮まり方しかみえないので、それはやはり世界の運命と考えるためには、やはり思い出が必要になっていくということがあるわけでしょう。工業になったとたんに、マラソンと徒歩競走の違いみたいなものが出てくる。

芥 アプリオリに農業をやっている人間たちのことを動物だと思えばいいわけ?

寺山 つまり川喜多は百姓を殺せといっているわけだ。おれはその論理はわかるよ。

芥 文字を書くときに死んでいっちゃうんだよ。関係ないのがものすごいでかい字だから、木がぶっ倒れるし、工場はぶっこわれるし……

寺山 文盲というのはやはり言葉につまずいてけがをするわけだ。(笑)

芥 たとえば事実に気づいて、自分がちょっと偉くなったような気持ちになんとなく、退屈さが自足してうれしいなんでいうのが言語だからさ。それを記号で書いたりしたって、それは単なるワーズ・プレイだから、言語と言葉とワーズとロゴスと記号とは全部違う。ロゴスというのは飛んでくる石とか、けんかの場まではいり込んできてしまう。言葉というのは、ある意味では全く姿を見せないで沈黙をかこっている。言語というのが直接なにかをやるときに書きつける、スクリプトするときの力になってくる。そうやってフィクションというのは一体化してあって、それらを一つのワーズ・プレイのみでやっていくのが一応ある小さい意味での文学ですね。それらを色と形でやるのが絵画になってくるわけだし、これはわからないんだ。それは政治とは全く違うと思う。所有に対しては非有をもってきて、存在に対しては非在をもってくる、共同に対しては全く非共でももってくるわけで、不という言葉はつかわないし、無という言葉もないわけで、非か形かということでさ。そこで形態形態とさっきからいっている。いわゆるシステムじゃなくて形態だということですね。形態には行為もくっついてくるからね。システムに対する技術というのは日本の場合はすごいでしょう。そのシステム工学の優秀さが戦後経済復興のシステムにつかわれた。低賃金で結核で血を吐いてぶっ倒れるまで、処女が一生懸命働くわけだしさ。そういう労働の恥辱をなんとかイデオロギー化しようとした奴らがいまの日共だし、奴らは当然革命はできないんだよね。少なくともそういう企業という大地を耕すときは非常に能力の差が出る。事物があるということになんらかの行為を企てられた。成功したものがブルジョアになっていった。ただなす術もなく自分でルンペン的につっ立っていた奴が一方的にこき使われてルンペン・プロレタリアートになっただけでさ。しかも努力すればブルジョアになれるのだから、階級といってもなし崩しになって、へんてこな共同性だけが出てくるわけよ。のっけから共産主義が出るものだからなんにもできなくて、単なるダダ運動にしかならない。フーリエ思想までいかないわけだよ。それでつぶれちゃうわけだ。そこでおれは秘かにほくそえんでいるわけだけれどね。いつも周辺でにこにこ笑っているのが散文だからさ。ときどき鉛みたいな重いのをどかーんと投げ込んできて、しかも後までやりっぱなしで休む暇がない。そのくせのたりのたりうっている。そういうのをぼくの場合はフィクションというんです。見えても見えなくてもかまわない。大きさも小ささもない、ただパワーと沈黙と形態がある。

豪 かなり科学的な言葉で申しわけないのだけれども、芥さんのいうフィクションというのはものすごく具体的なものだと思うな。さっき寺山さんの共同生活についての話、ロンドンとかキブツとか、そういうのを聞いていて思ったのだけれども、そういうものはどうも具体的に見えてこない。要するに山岸会なんていうのはまるっきり具体的なものがない。

芥 ないと思えばないんだものな、目に見えないんだからさ。

豪 要らないというのかな。そういう感じがするんですよ。つまり共同生活という言葉じしんもぼくはあまり好きじゃないんだけれどもね。

寺山 好き嫌いにかかわらず、共同生活をしたがる人がこんなに多くなっている現実というのはなんだろう。山岸会は見えなくともニワトリの卵は食う。つまり今朝のあなたの食卓にも、山岸会はあったという現実が具体的でないというなら、具体的なものは無人島だけになってしまうよ。

芥 本来、人類というのは共同生活をしているのだけれども、共同生活をしているという実感がしないわけだよ。それが断絶だとか疎外感になる。それを共同生活によって回復しようという、全くあと先逆な……

寺山 共同生活論というのはいろいろな組織がえにすぎないわけだ。学校で一年A組とB組とC組があるのが、ときどき組の移動を行なうみたいなものでさ。共同生活をぜざるを得なくてしているのに、それをもっと意識的なものにしたいというふうに思い込むことでイデオロギーが必要になる。山岸会とかキブツというのは、見えると見えないとにかかわらず、現実に在ってぼくらの血縁者がそこにいっぱいいるわけだ。
ただ共同生活が見えない、見えない、と言ってると、あっというまに「国家」ができてしまうので、それは怖ろしいことだと思うのです。見える、見えないは心理学の領域で片づくが、プラトンの「国家」以来、政治学が心理学を解く鍵になったのであってね。ぼくの考えでは、人は生きなければならぬと決めたときからもう共同生活をはじめてるのであって、木やイノシシと暮らすか他の人間たちと暮らすか程度の違いしかない。どっちにしたって、そこには具体的な拘束はついてまわる。「未開人は、ルソーの想像するように、自由で無拘束なものでは決してない。却ってそれはあらゆる側面において、その氏族の慣習や迷信、太古からの伝統の鎖で拘束されているが、文明人のように破棄しようとしない」とシドニー・ハートランドが「原始法」という書物で言っていて、それはつきつめると見えない共同体をどうするかではなく、共同体を見きわめるか、見きわめないか、という問題に尽きるのではないか。中国だって、デカい釜のキブツです。あそこは土地がある。あそこのシオニズム、聖なる故郷は、毛沢東なのだな。

芥 動物なんかの場合は毛沢東もイデオロギーもいらない、アプリオリにキブツなんだからさ。だって草の生えているところにいればいい。草の生えているところを、フィクションのルートをつかつて、本能的に求めていくだけだ。

寺山 共同生活を言語の問題というのは、そのへんから始める。

芥 それは見かけの共同生活でしょう、清水多吉がここでやった「叛乱論」で一生懸命言っていた見かけの連絡性、これが不連続を引き起こす、それが反乱で……なんていっていたくせに、こないだ知ってるやつが電話をしたら、「完敗だ」「完敗だ」というんだって。で、よく聞いてみたら社会党が完敗したという意味らしいんだな。(笑)そういう男だった。票を入れてもらうのに見かけの連続性なんて言葉を使うんだ。

寺山 清水多吉という人は社会党なの。

芥 そうです。

寺山 クラウゼウィッツの「戦争論」を翻訳していて、日本社会党か。クラウゼウィッツは生活のためだったのか。

芥 日本というのはそれだけワイセツなわけよ。

寺山 でもおもしろい男だね。

芥 だってもう錯乱しているもの、幻想のオバケだ。ロゴスを失うと幻想のオバケになっちゃうでしょう。だからパトスで幻想をひとまとめにしないとできない。そうすると革命を待ち望むことしかできない。まあしょうがないと思うんだな。それでのっけからバイソンになってしまえ、と言いたくなる。

寺山 バイソンてなんだ?

芥 アメリカ野牛よ。文明も文化も関係ないのだけれども、それが文明と文化だみたいになる。精神も肉体もルンペンでしかないわけだ。もし自立という言葉を使おうとしたら、フィクションの奴隷というわけだ。動物の中にだって山岸会もあれば本当の革命集団もある。上野のサルの動物園の中だって年中革命が起こっている。ただ見えないだけだ、そんなのは実際に見えないのだから、これはしょうがないよ。見えないものを見たふりして、それを記号にする遊びというのも人間の世界だとあるらしい。そういう遊びじゃおれの退屈はどうも消し切れない。牢屋の中だったらいいよ、見えないものを一生懸命見えるようにして遊ぶのもさ。実際、見えちゃう牢屋なんだからおそろしいんだよな。だからみんなわざと盲目になる。人間人間なんてたやすく使うけれども、人間なんておれあまり出会ったことないよ。二十何年生きてきているけれども、まだ二、三人だものな。わずか五世紀だというわけだけどさ。

寺山 あとは全部野牛か。

芥 人類という一つの大きな共同体だから、しかもそれは屠殺会社を営むことによって存在を確保している。そうするとどうしても一切の非共同を守ろうとする。突然、逮捕されて殺されちゃう奴と、逆にアプリオリに存在をかこっている、ネズミを空家でぶっ殺す作業がある。

寺山 屠殺が手工業的に行えなくなったときに、共同体の営みが生まれてきたわけでしょう。

芥 ある意味ではイージーライダーがぶっ殺される原因だけど……

寺山 手工業の時代が終わったとき殺すための道具ができる。当然、屠殺されないための抵抗の道具もできる。道具と道具との関係が、共同体論を生み出す。イデオロギーは道具にすぎないからね、ぼくらにとって。そこで道具の使い方がキブツや、中国を要求するか、ルンペンになって解体しちゃうかの地平線を画する。無論、共同体だからと言っていつも共産できるとは限らな軽騎兵旅団(ルビ:ライト・ブリケイド)の突撃命令の意味での「絶対服従」が用いられないのは、単に非能率的だからにすぎないので、もし皇帝を必要と皇帝なんかすぐできる。それが共同体の摩詞不思議だよ。

芥 山谷だって毛沢東的にやれば中国になるわけだしね。

寺山 山谷はすでに中国のおカユに浮かんでいる一匹の蝿だ。

芥 あれはある意味ではバイソンでしょう、ネズミといってもいいけれども……

寺山 一人キリストが出てくればすぐ中国になるな。

芥 あの中にまぎれ込んでいくと殺されちゃうみたいなところもあるわけじゃない。日本のスラムはあまりないけれども、中近東のスラムなんて、まぎれ込んでいくとぶっ殺されるわけでしょう。

寺山 世界中のスラムはそうですよ。日本以外は。

芥 日本は屠殺力というのを失っている、すっかり国家に巻き上げられている。屠殺力があれば共同体は共同体として生き延びると思うけれども、屠殺力を失った共同体なんてナンセンスだと思うな。さっきいったヨーロッパのコムだって、屠殺力を放棄したかわりにメディアを持てない。手塚治虫は一生懸命漫画を書いているから、一応コムは持っているけれども、あれだって危ないものですよ。

寺山 あれはコミューンのコムかね。コミックのコムだと思っていた。

芥 理屈を抜きにしたコミュニケートという意味もあるんじゃないの。コンパクトとか……

寺山 コンプレックスとか、コマーシャルとかにもすぐつながる。コムってのは大体ワイセツな言語だよ。ところで、もう終わりかい?

植村 屠殺力を生むには、苦痛の共有体験がなければいけないのじゃないかな。共同体じゃ、さ。同じ苦しみを味わったということが一つの屠殺力の培養地になる。

芥 たとえば一例としてあげると、あらゆる非共同を守り続けることによる空間の共同性というものか。

寺山 すごくおそろしいのは、スペードの札ばかり集めているニヒリストが、ツーテンジャックじゃいつのまにか、すごいプラスになってしまう。非共同の共同性みたいなものはすぐにおかまになる。

芥 それでなければ形態というものはもっておれない、それが形態だもの。だから祭と戦争しかない、平和なんてこれっぽっちもない。マゼランの船だから。

寺山 金と女と機関銃だよ。

芥 ただマゼランの船の場合は形態があったでしょう、あそこで共同生活を守ろうとしたら船は進まない。もういいじゃないかというわけだけどさ。しかも船長が死んでも必ず帰ってくる。屈辱があるから、一切のやすらぎがないという……そうするとすごい推進力がついちゃう、おれはそういう推進力しか必要じゃないんだ。

橋本 共同体のときには芥さんはフィクションという言葉を使ったけれど、ぼくの言葉にすると現実味をもって来るのだということですね。

寺山 聖現実か。

芥 一応、現実というのはあるわけだ。

橋本 あなたの言葉ではそれが虚構なんですよね。

芥 虚構というのは目に見えないものの一切だよ。目に見えないもので人間を動かす。

橋本 たとえば歴史みたいなもの。

芥 自に見えないから、それはシステムです。つまり虚構ですね。

橋本 私が言うのはそういうものじゃないものでの現実ですよ。

芥 じゃ事物と風景ですね。

寺山 速度がおそいものは全部現実だというふうになってくると、現実はつまらないものになっちゃうな。

芥 たとえばこの部屋はどうなんですか。聖現実なんですか?

橋本 じゃありません、いまはね。

芥 あ、わかった。時間だね。その時間がおとずれたときの空間が聖現実とあなたは呼ぶというわけですね。おれがフィクションのあらわれと呼ぶやつだな。

橋本 それをいっているわけだ。

芥 わりとよく見ているというか、おれはそういうの好きだよ。ただ記号がよくないよな。聖現実というのはリリックすぎてさ、おれ、リリックというのは好きなんだけれど……。のっけから無時間無空間なんだよ。幻想が出てきて、それにまかした共向性はあんたはいやだというわけで、なんとかということなんだよな。

橋本 共同体ではないけれども、時間なり空間をこしらえるのに最低限の要請。たとえば芥さんにもあったものだが……そこから俗性を省いてセレクトして聖現実を生みだす。

芥 聖現実にかえうることが可能なわけですね。それはいかようにかえるかじゃなくて、どうやってかえるかみたいな問題なんですよ。

橋本 つまり脱色脱臭して、その上に色と臭いがあらねばならないんだけれどもね。それをつくるには自分が事物を全部セレクトしていかなきゃできない。

寺山 しかし時が訪れれば、というのと時を招いてもというのでは悪魔の態度も変わってくる。

芥 時が到来するのと、時間がそこに存在するというのとは別だからな。

橋本 待つ姿勢じゃないわけよ。

寺山 でも橋本の思想は三時になるとオバケが出るということだろう?

芥 言語の中へ閉じ込められて、そこから出てこられなくなって、死んでも聖現実を自分でもってこれない。自分でもってきたいのか、それとも誰でもいいのかというのがあるでしょう。

橋本 自分で行為することですよ。誰でもということじゃないですね。

芥 早い話、おれは誰でもいいんだ。

橋本 小さくぶっつぶれて、部分としてあるときは、それは宗教である。それを拡大化していくことがいまの主題でね。

芥 そこで自分がはいりこむと、自分の足を自分の手でひっつかんだまま歩こうみたいなことと似ているんじゃない。

橋本 そういうところはありますよね。

寺山 宗教というのは多かれ少なかれ自己救済という感じがするわけだ。川に溺れていない信者はニイチェだけだ。おれは救済という言葉がすごくいやなわけだよ。演劇はお助けじゃないし、他人の救済でもないわけだ。劇場というのはノアの方船じゃないわけだから。

芥 ノアの方船ほどのリアリティを持てるかといったら疑問じゃないの。ノアの方船まではとうに及ばない。

寺山 世界の滅亡がノアの洪水にとうに及ばないから、方舟も安上りになるのだ。

芥 空間都市というのはマゼランの船といっているけれども、ある意味ではノアの方船だっていいわけだからさ。だからヤギから車からありとあるものはなんでも部屋の中にそろえろといったわけだ、それで観客が流れできたら、そいつを洪水と思えというわけだから、出水したわけよね、かわいそうにノアの方船はさ。あとは屠殺力あるのみなのよ。

橋本 屠殺力を私なりに聖現実から起こそうとするでしょう。その時の衝突でもって、自分は肉体的には舞台で殺されるかもわからないけれども、しかし、屠殺力が血を噴いて聖現実の中から起こるという可能はあるでしょう。

芥 でも聖現実というのは真っ先にあなたを殺しにくるというのがあるでしょう。いつだって神というのはやろうとした張本人を殺すわけだから。それが幽霊の沈黙だから、それに対してどういうテクニックを持つか、そこで非在にならなければやられちゃうというのがある。そのかわりものすごいスピードで……

橋本 あのときだって、あなたはライトを浴びたじゃないですか。

芥 いつですか。

橋本 ここに立って、あなたは非在をしなかったわけですよ。

芥 それとは別よ。そこにはおれの形態があるわけでしょう。だからスタイルだよな、スタイルと私は別ですよ。形態だよ、形態というのはなにも動かないものじゃないから、動かない形態というのは欲求不満に満ち満ちているわけだ。だから、これの苦悩というのがある、絶望と、不能と、失敗と、これらをいかに成就するかが聖現実だよ。ものは勝手にこんな形をあてはめられて退屈なわけじゃない、これをぶち当たってつぶすのがルンペン・プロレタリアートの役目でさ。銀行員という全く退屈なものが洪水がきて殺される。これがピカソであろうあろうとすれば、ますます長引くだけだ。銀行員であろうあろうと思って長引いて、しょせん主体性の無力さというわけね。自律がなんら自律じゃないというわけよ。銀行員として主体性を持とうとしたわけだからさ、一方的にやられるんだけれど。そうやってものが本来もっている不満の欠如を成就するみたいなもの。ピアノはクラシックの技術、テクニックだけでは成就できなかったから、セシル・テーラーみたいな男を恋人として呼ぶわけだろう。セシル・テーラーというキンタマをピアノというおまんこが突っこんでもらうわけじゃない。それはフィクションの強烈な性格だからしょうがない。演劇という土器が欲求不満になったときには、おれみたいなキンタマをほしがったりするわけでしょう。そういえばここでやったことなんかも一つそうだけれどもさ、なにしろ欲求不満なんだよ。その欲求不満を満たさなきゃならないから、強烈にピストン運動をやってあげないといけない、そのピストン運動が自動律なんだけれども、それが同じ行ったりきたりが絶対にないわけよ。おれがこの劇場で「OM」をやったとき、それは演劇をぶっこわしにきたわけでもないし、みんながやりたいということを裏返しにきたわけじゃないし、むしろみんながやりたいということを成就しに、演劇が本来もっている不満を成就しにいるわけで、その辺はキリストのマタイ伝だけれどもね。───私は予言や律法を廃しにきたと思ってはならぬ、むしろそれらを成就するがためである───。そのかわり実のならない木は枯れてしまえといって、切っちゃったり、ぶっこわしたりする。欠如をみずから気づいていないもの、リンゴの木だったらリンゴがならなければいけないのに、リンゴがならないでも平気でいる、そんなのは枯れちゃったほうがいいわけですよ、いくら自立だ自立だといっても、本人がいっこうに自立していないようなものは、バカ!といってぶっこわしちゃうわけだからさ。音の出ぬ土器などは崩れはてよ、というと、早くやりゃいいねじゃねえかというから、じゃおまえのような音の出ぬ土器からこわそうといってバーンとやったら傷害でとっ掴まったんだけどさ。

寺山 いつ掴まったんだい。

芥 去年、「キリエ」をやったときよ、突然逮捕された。

川喜多 おれが見にいった晩だ。

芥 そうだ、あんたがきた日だな。佐藤信がきた日なんだ。おれがバイオリンを信に渡して、勝手に弾いてくれよといったときだよな。ある意味では人間というのは屠殺力を唯一の武器としてものごとを成就しなければならない構造の物体じゃないか。ある意味で太陽があるというのは屠殺力じゃない、輝きでもって成就する物体じゃない。動物というのは記憶の再現の持続によってものごとを成就していくだけじゃない、人間は屠殺力をテクニックとして選んだ物体だけに、一応、地球上の生物は支配することが可能だがただ人間の屠殺力の限界というのがある。政治による屠殺力にはもう限界がある、動物によってしか役立たない、あとどうするってわけでしょう。学問による屠殺力も内部のカラクリしか殺せない、外部はどうやってこわすのか、人間がつくっちゃったものは、人間はどうやってこわすのか、そういう問題ですけれどね。共同というのは人間がつくるものじゃないから、人間があるということの全く沈黙なままのバトルだから。ぼくはバトルだと思う、けんかのないところに革命は成功しない。たとえば塩一グラムを入れるか、十グラムを入れるかは、寺山的ないい方をすれば、けんかをして勝ったほうが入ればいいわけでしょう。

寺山 塩を一グラムにするか十グラムにするかという血なまぐさい啀(ルビ:いが)みあいがまさに共同体ということなんだよな。

芥 そこに形態を与えなければならないでしょう、立法をさ。強い奴の塩だけ入れればいいわけで、負けた奴なんかは食わしちゃいけないんだよ。負けた奴まで食わそうとすると農耕のキブツになる。ただ生命だけは保証してやらないと、いくらフィクションとはいえ、生命を奪う権利はないからな。

寺山 屠殺されながらそのことに気づかずに生きている奴がいっぱいいるので、そういうものと自分とをはっきり峻別させるために、たまには共同生活について話をしたりする一晩があってもいいわけだ。

芥 ぼくは録音の技師だから、正しく録音していりゃいいわけだ。

寺山 そろそろ終わろうか?

豪 共同生活というときの共同というのはなんとなくないから、共同というと共同募金がイメージされる。

芥 みんな同じだという意味でしょう、共同というのは。誰かみんなと違うかということが保証されないから形態がこないんだよ。

寺山 みんな同じじゃあり得ない、同じじゃないんだ。同じだということがいやだから共同体論を必要とする。

豪 同じものじゃいやだから、また同じものになっちゃおうという、それだけでしょう。

芥 そうだよ。自動律からの回避だものな。

豪 だからつまらないのだと思うな。

芥 ジャズが言葉だという奴と、てめえの泣き声が言葉だという考え方をする奴とあるわけですよ。

豪 一人でいる人間のほうが共同なんかでいる人間よりずっと興味にあふれでいるわけでしょう。

寺山 あなた、この間もそうだったけれども、本物の浅丘ルリ子よりオナニーのほうがいいという意見で、あなたの共同体論というのは「出会い」にアレルギー反応を起こす。

豪 ぼくはぼくが一番興味があるからそうなんですよね。

寺山 それはエゴイズムとエゴチズムの違いみたいなことはたしかにあるな。

芥 カッコよさから見たら、絶対にオナニーのほうがカッコいいものな。

寺山 オナニーだと聖母マリアとでもできるからな。

芥 つっこまれるのだけはこんりんざいいやだな。女がもってくる記憶につっこまれちゃう危険性がある。えてして女の記憶の中に埋没しちゃうみたいなのがあるから、それでオナニーのほうがいいという意見なんかも存在するのじゃないかと思うな。

寺山 オカマはどうだ。

芥 掘るほうだったら女と同じよね、しかも女よりいいと思う。ある意味じゃおれは男色家かもわからない。趣味としてあまり行なわれていないけれども……。男のからだも女のからだも、そういう話になりゃ同じなんだよ。だってパンを食ったって、めしを食ったって同じだもの。だからものを食うこと、おまんこをすること、ウンコすること、この三つから解放されない限り、なんにもできやしねえんだろうと思うわけよ。ほかの人間だってほとんどめしを食って、ウンコして、やるだけだろう。その合い間に競馬をやるだけだからさ。(笑)

寺山 それが重要なんだよ。つまり競馬というのは金でも女でも機関銃でもないわけだ。

芥 人間であるから、どうやって抜け切るかだからさ。

寺山 そうだよ。アメリカの野牛には競馬のレーシングフォームの謎はとけない。

芥 奴らは自分でやっている。一番早い奴が……

寺山 それが自立というものだ。

芥 あんたの発想からいえば、競馬が政治をきめちゃう理想形だよ。(笑)

寺山 しかし、それは単なる自立でしかない。経験だけじゃドラマは生まれない。言語も必要なのだよ。

芥 野牛は競馬をみずからやっているんだもの主体性あるよ。

寺山 しかし、野牛が競馬を語っても、ヘミングウェイほどうまくはないということさ。

芥 野牛の中で一番早い奴がカッコいい。親分になったりするわけだしさ、ライオンがきたときに奴がボスになる。奴が国家も全部一緒くたになっているわけだ。

寺山 最後は速度の問題なんだから、早い奴が世界を征服するんだよ。

豪 共同体というのは絶えずそういう非常に国家的な形態をとるわけでしょう。絶えず強い者が……

芥 強い者が支配するからといって必ずしも国家じゃないぜ。

豪 それはそうだけれども、形態としては非常にそう見える。

芥 たとえば天皇なんて一人しかいないし、ちっとも強くない、だけど天皇が支配してきた。

植村 つまり天皇自身は強くないけれども、天皇が強いという神話がある。

芥 つまり、幻想にオカマを掘られてるってわけだろう、掘られなきゃいい。みんなが掘られていなければ、天皇制なんて生まれていないわけよ。みんな恐怖におびえてオカマを掘られていたからさ。

川喜多 掘るというのは一つの屠殺力だよ。

芥 一種の集団催眠術だから。

川喜多 催眠術というよりむしろ屠殺力だったというふうに思うな。

植村 それはフィクションの屠殺力ですよ。だから私はフィクションにやられてはだめだというわけです。フィクションはおのれの武器だというわけだからさ。

寺山 人のフィクションと自分のフィクションはいつでも対立しているのだよ。それは真昼の決闘───ハイ・ヌーンの世界でね、どっちが先に抜くかという早さで決まる。

芥 ポジティブとネガティブの違い、ぼくはネガは役に立たないと思うな。ジャズとクラシックの違いもネガとポジでしょう。へたなジャズなんてショパンを聞いているのと同じだ。菊地のピアノを二時間前に聴いたんだけれど、あれ、「ナル」というのはショパンやるの、といって出てきちゃった、千円も払ってな。

灰野 幻想にオカマを掘られないような共同体とはなにかというところにいかなきゃいけないわけでしょう。

芥 そうです。それが武装した肉体というわけです。

灰野 しかし、それは絶えず循環するわけでしょう。

芥 習慣に負けたり、社会に負けたりする奴なんか、のっけから関係ないんだよ。そんなものは目も触れなくたって、もう死んじゃっている、こっちが屠殺する前に殺されているのだから、おれはそんな奴をいちいち殺すのはいやだ。幻想の中で犯罪人扱いをされるとやりづらいからね。

寺山 つまり記憶する速度と歩く速度とのレースだ。……

芥 幻想が自分に押し寄せてくる前に自分が逃げていればいいわけだろう。

寺山 逃げるのと、先行するのとは大いに違うわけだな。それはタマミやキクノホープとアイアンモアや三歳時のアローエクスプレスの違いだ。

芥 たとえばバカな奴は生まれたときから社会があるというだろう、おれなんかはまだ社会があることに気づかないものな。

寺山 おれは気づいてたな。おれは社会をつくったと思っているよ。

芥 権力者というのは絶対めくらのやり方だから、ものなんか見ないで……

寺山 だけどあらゆるイデオロギーは権力だからね。そういう意味では権力を否定する論理は非生産的だ。

芥 それはイデオロギーの中にいる奴だけよ。散文を書こうとしたりて、野間宏みたいなイデオロギーの中にいる奴は、やっぱり権力というじゃない。

寺山 「真空地帯」の中での権力だからね。引力の働かない権力は弧独なのだ。

芥 あらゆる形が権力だと思うな。

寺山 形態はすべて権力的です。

芥 形態というのは目に見えます。権力はどうやって目に見えますか。

寺山 そういう意味じゃ形態だって見えないよ。おれが見るのは箱だの書物だの船だのだがそれは「形態」じゃない。形態もまた思想なのだよ。

芥 それは退屈しのぎですべての形態が生まれている、国家が退屈しのぎをしようとすれば戦争をやる、風俗というのは退屈しのぎの生活化だから、生活を切りはなしては政治国家は存在しない。ただ幻想国家というのがあるでしょう、天皇制というのは幻想国家なんです。佐藤内閣というのは一応、政治としてのみの官僚国家なんです。国家もいろいろありますから、演劇国家というのもありますでしょうし、ラブ国家というのもある、ルンペンのスラム国家だってある。いちがいに国家というのがアプリオリにあるなんてきめてかかるのが、まず国家という幻想にオカマをほられていることで、ちょうど革命があるとアプリオリにきめてしまうのと同じで、革命は年がら年中起こっているし、国家も年がら年中起こっているものなんです。全部ハプニングだよ。

寺山 引き起こしている、といったほうがいいな、自分で。

芥 起こる速さ以上にこちらの肉体を絶えずある速度の次元にもっていっていないとオカマをほられてしまう、それでぼくは速度といっているわけです。それだけなんだけどな。あとは幻想にオカマをほられて、つれづれなるままにやる。日本の文学はほとんど「徒然草」の本質から出ていない。「徒然草」をテクニックにしていない。徒然をテクニックにしたのがベケットだけどさ。今度ベケの芝居を全部一挙に同じ部屋でやっちゃう。あの寡黙さが饒舌さにかわるだろうというわけだ。ベケット・ソーンというのだけれど、いまうちの連中が自分で翻訳している。

寺山 共同体というのが非常に重要なことは、形而下的な意味での集団論だけで実践されていったときに非常に退屈になってしまうということです。共同体は、出会いを持続することの中にだけ目的があるので機能的な集団になると堕落しはじめる。退屈だから、ニワトリを殺してZ革命をユートピアへ架橋しようとしても退屈さに勝てるものだろうか。
六万坪も土地を持っていながら、ニワトリしか殺していないでどうして革命なんかできる?(笑)

川喜多 でも逃げようとした男が血まみれになったという新聞記事があったね。

寺山 あのころの山岸会というのは異教徒だったもの。

芥 あれを共同体というとおかしいんだよ。共同幻想体だ。いかに共同幻想体を共同体にかえるかということに……

灰野 意識をどれだけなくするかみたいなことでしょう。意識を働かせる力みたいなことが、すべてフィクションになっていくところがあるわけでしょう。

芥 意識はべつに働かないよ。

灰野 働かせる、その作用をすることが結果としてのフィクションになるんじゃないのか?

芥 意識というのはおそらく恥辱しか感じない道具だと思う。いるということを感じるのが意識で、存在と意識と勘違いしているから意識論者というのが出てくる。意識というのはなんの役にも立たない。透明で無色無臭ですよ。

寺山 意識という言葉が社会改良につかわれた時代は不潔だよ。意識を道具としてとらえる主体はどこの王なのだ?

橋本 道具としてとらえた相手は全部フィクションでしょう。

寺山 意識はナタでフィクションは婆さんの血だというふうな考え方もある。

芥 たとえばものをとらえるとき、見たらもうある、意識がとらえているのではなくもののほうが勝手にある。

竹永 それをもし意識としてとらえた場合にはフィクションになってしまう。

芥 それを物体の速度といっているわけよ。フィクション速度。こっちがパッと見たときに、もうこっちにきている。

竹永 (テーブルの上の剝製を指さして)たとえばここにタカがいる。これがフィクションだと、どういう?

芥 のっけからタカだといってしまえばフィクションは消えちゃうな。幻想が出てきている。

竹永 意識という言葉が悪いかもしれないが、それに個が作用したときに対象はフィクションになるわけでしょう。

寺山 つまりこれはなにもないわけだよ。タカでも剝製でもない。言葉でさえもない。サルトルは、開けたからドアで、開けなければただの木の板だ、といっている。そこじゃ意識なんか問題じゃない。つねに存在が先行している。

竹永 意識を作用させたものはすべて逆な形でフィクションになってしまう。

芥 あなたの場合、なにを名づけて意識と呼んでいるの?たとえばこれはわからないわけだよ。ただここにこういう形と物体があるから、あれ?と思うとき、これはおれたちにとっては恥辱だろう、わからないんだからさ。それが意識で、意識が認識のきっかけになるだけだよ。

寺山 竹永のいっているのは、きっかけじゃなくて道具だといっているわけだろう。意識もテクニックだというふうにいおうとしたわけだな。

芥 意識がとらえたのがフィクションだというわけ?

寺山 つまり意識を道具に使うことができるかという話だろう。意識は名付親の放つ矢でありうるというのは自明のことなのだが。

芥 タカをはじめて見たとき、タカのこの形とはじめて見ている人間とは全く同じ地位にいる。

寺山 みんなこれをタカといういい方をしている、小道具というふうないい方をしなかった。これはすでにフィクションにはまっちゃっているわけだ。

芥 小道具でもない、なんでもないわけだよな。

寺山 事物だといえばな。

植村 事物といったほうがサインとしてよりいいというだけですね。

芥 いう必要もないな。見ればあるんだから。見えない人に伝えようとするときにどうしでもワーズが必要になったり、作用が必要になったりする。一番簡単な方法のほうがいいわけで、これを言葉なしで伝えようとしたら、たいへんだよ。

寺山 ノイローゼだというのはいこういうものが全部あることで、けっこう地獄めぐりだったりすることのできる才能をいうのだ。

芥 事物観に閉じ込められちゃ出てこれないから。

寺山 事物との遠近法みたいなのを見失うとえらいことになるわけだよ。こともなくいま、一羽のタカで距離の測定がとれたように了解しているけど。

芥 これをのっけからタカと呼ぶことがファシズムなんだよ。ちっともそれは愛じゃない。幻想のファシズムですごいんだよ。それでいつもおれはぶっこわされちゃうんだ、なんでもかんでも。ピアノを弾いていると、うるさいとおこられる。おれピアノを弾いていないというんだが、それはピアノでしょうというんだ。うるさい、このバカ野郎といっておっとばしちゃうんだけれども、どうもやはりだめだ。

寺山 だけど耳のよすぎる奴というのは風が吹いているのだってうるさいと思うわけだろう。耳の悪い奴はものすごいジャズをきいていても、なんにも聞こえなかったりする、もっともそのほうが耳がいいということかもしれないけれどもね。なにがうるさいか、なにが静かだというのは遠近感の問題ですよ。誰でも鏡の国のアリスになれるってわけじゃない。

竹永 速度ということにすれば、どれだけ速く名づけて、どれだけ速くそれを捨てていくかじゃないですか。

芥 名づける必要はない、それを奪うことで充分なのです。


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