追悼 室伏鴻芥 正彦
童べ歌が聞こえる
“How many times we must die──
人は何回死ねば本当の人間になれるのだろう。一回、二回……”
私はもうずいぶんと老人だ──原爆に焼けただれた瓦礫にすがって、即身仏ミイラになった幼児が、砂ぼこりを上げる風に吹かれてころがっている──その図がまるで無邪気に世界と戯れているダンサー達の図にとって代ったような、ひどく勘違いしたスペクタクル世界に生きてきてしまった。
連続殺人者は、そこいらでオルガズムの風車をビュンビュンと回している。
痙攣し臆面もなく射精しながら。
又、私の友人達を次々と消していく。
事象の水平線がゆっくりと大きな観覧車を回しながらセリ上り舞い下る。
そのたびに 私達を乗せた遊星が青空に血しぶきを噴きあげながら、グルグルと迷児になったように同じところで回っている。
世界経済のカマドは燃え盛り、フイゴは性的な唸りを上げ、大量の灰が吹き上がり、商品の大洪水は渦巻きながら世界を呑み込んでいく。
生権力と生政治は商品の言語作用とともに多言語多人種の多様運動を、貨幣の統一的画一的な言語的運動に変換しながら、生のポテンシャルエナジーの虚無化に勤しんでいる。
いのちがいのちを妊み生み、いのちを喰らい、育て殺す、いのちの自己増殖自動マシーンを、夢の一大世界スペクタクルマシーンにしてしまった。
かくて人は夢の中で生まれ、夢の中で生き、夢の中で殺され、夢の中で死んでゆく。人は夢から覚めることも出来ない、夢の一大生産消費の自動システムを完成したのだった。
そして世界は光の同時刻圏の中で結ばれ、あい一つになって「死の大観覧車」を回し始めた。このエネルギーはいくら変化してもし尽くすことなく、まだ95%以上はダークなものであり、無限の未来が広がっている。
回れ回れ大観覧車!なのだ。
この風力に尽きることはない。
なぜって、私の身体のどこか一点に穴が穿いている。
そして、眼の前の風景のどこかにも同じ穴が穿いている。
この宇宙のどこかにも同じ穴が穿いていて、これら三つの同じ穴を、同じ風が無限に吹き続けているからだ。
ふふっ、と室伏鴻の笑う声がする。
そういえば一昨年、私達は二人して一緒に二回も死んだのだった。
さあ、回れ回れ大観覧車! 一回 二回……。
では 又。
室伏君のテーマは、死を積み重ねて消尽しつくすことだった気がしてならないのだ。
芥 正彦